藤、共犯者の栞。
それから、彼と学内で出会うことが多くなりました。四月に入り、学年が一つ上がった事で、二年から受けられる専門科目の履修が増えたからです。
ただし、出会うだけでした。
彼は、彼の友人とよく一緒に歩いていました。彼の友人は、赤く染めた髪に派手なピアス、銀に輝くネックレス、と彼の持つ雰囲気とは真逆の容姿でした。すらりとした独特の雰囲気の彼と、大量の装飾を難なく着こなすその友人の存在は、二年になった私たちのところにも噂が流れてきました。
建築学科に女学生は少なかったものの、彼らの整った容姿を噂する声は止みませんでした。どこからともなく、彼がこの大学の学生ではなく、藝大生であることも囁かれるようになりました。彼はそれを知ってか知らずか、平然とした顔で大学に来ていました。
なので、私は「たかなしきづき」という名前を舌の上で転がしては溶け、何度も消えないように心の中で呼び直す事くらいしか出来ませんでした。
いっそのこと東京藝大に行ってみようかと思いましたが、私は果たして彼に出会って何がしたいのかすらわからず、また、最高峰の芸術大学と名高い場所に足を踏み入れる勇気は微塵もありませんでした。
とどのつまり、私は同じ学部の友人と毎日を過ごし、学年を交えた大講堂での講義の時には、決まって右端の真ん中あたりに座る二人を後ろから眺めるだけでした。
彼は学ぶためというより、友人と共に過ごすために来ているように見えました。そして、それは咎められるほどの事でもありませんでした。
四月の春は少し柔らかい日差しに変わりました。私は、その日の下で、度々彼が噴水に腰掛けているのを目にしました。
私はそれに会釈をしたり、気付かない振りをしたり、まちまちでした。彼は最初は目線だけを少し伏せる程度でしたが、少しずつ微笑を返してくれるようになりました。
ある日の昼過ぎでした。大学の渡り廊下の手前に置いてある自販機で適当にペットボトルを買い、次の講義室に向かおうとした時、彼に声をかけられました。
「久しぶり。悪いんだけどさ、一〇二教室ってどこか教えてくれない? 知ってる?」
相変わらず黒を基調とした服に、銀の長いネックレスをしている彼は、ノート取ってこいって言われてさ、と笑っていました。まさか彼から声をかけられると思わず、私は少し驚きつつも彼の目を見ました。やはり穏やかな青が、その虹彩に滲んでいました。
「物理学Aですか?」
「多分それ。よくわかったね。」
ちらり、と自分の鞄の中に目をやると、確かに物理学Aの教科書が入っています。二年でこの講義を取る人は少数派で、大学で出来た友達を含め、ほとんどの学生は同じ時間の一般教養の講義を取っていたため、この授業は一人で受けることが決まっていました。
「受けるつもりだったので」
「へえ。物理好きなの?」
「建築に興味があって。先に物理をやろうかなと」
どちらからともなく、適当に雑談を挟みながら私たちは廊下を歩いていました。コツ、と響く彼のブーツの音が何となく心地よいと思いました。
ちらり、と彼の横顔を見ました。肩につくかつかないかの髪が、ふわりと揺れ、藤の香りが舞いました。
教室の後ろの方に座り、配られたレジュメに名前を書いて教授を待つ間も、隣が気になって仕方ありませんでした。この人が何を創って、何を美しいと思うのか、もっと知りたいと思いました。
レジュメは授業後回収するので写真撮るなら早めに、とモニターに映された文字を見て、私はちらりと右を見ました。彼もそれに気付いたようで、仕方のない奴、と小さく呟いた後に、名前の欄に有栖川真琴、と書くのが見えました。
私は、彼の友人の名を初めてそこで知りました。あの赤髪の、いかにも遊び人のような風貌の彼にしては似合わない、似合わないというと少し失礼ですが、とにかく、名前の印象と彼の見た目はあまり合致していませんでしたから、少し驚きがありました。
ずっと彼の手元を見ていた事に気付かれたのか、彼は不思議そうにこちらを向き、「ああ、これ、友達から講義代わりに受けといてって言われてさ。風邪引いたらしくて」と微かに笑いました。
藝大の授業はいいのかと恐る恐る訊くと、彼は目を伏せて、「制作だけだから大丈夫」と呟きました。私に伝えるためではないような、それはまるで、彼自身に説くような声で。
そうなんですね、と相槌を打ち、私は視線を自分のプリントに戻しました。これ以上追求してはいけないと思いました。
芸術とは無関係な人生を歩んできましたが、藝大の壁の落書きを筆頭とした、様々な挿話に対して何一つ知らないわけではありません。私にはわからない苦悩を、彼の口から無理矢理語らせるのは些か不躾で、それが想像できないほど私は子供ではありませんでした。
しばらくすると教授が入ってきて、講義が始まりました。
初回にも関わらず、ガイダンスのない最初から全速力の講義に、私は追いつくので必死でしたが、隣の彼は涼しい顔で物理の言語をレジュメに書き込んでいました。
モニターに映る式は目まぐるしく変わり、彼が「そっちのレジュメは回収するはず」とこちらを見ているのに気付いた時には一時間半の講義が終わっていました。
「見る?」
くすりと笑いながら、彼がこちらを向いていました。
辺りを見回すと、殆どの学生は教卓の上にレジュメを提出し、講義室から出ていった後でした。壇上で真面目な複数人の学生が教授と何かを話しているくらいで、私たちが居る部屋の後ろ側には誰もいませんでした。
「すみません、助かります。お願いします」
「こちらこそ。去年と教室の場所変わってたから助かったよ」
彼は「あいつ再履なんだよ、だから俺、これ二回目なの」と苦笑して、紺のカーディガンを羽織りました。私は彼に見せてもらったレジュメを写真に撮りながら、彼の下の名前の漢字が見られなかった事を少し残念に思っていました。
ちらりと時計を見ると夕方の五時半を回っていて、それを認識した途端にどっと疲れが体にきました。筆箱と教科書を鞄に入れ、パーカーを羽織ったところで、彼がこちらを見ているのに気付きました。
「この後講義ある? なかったら夕飯でも奢るけど」
え、と呼吸が一度止まりました。初めこそ、彼の纏う独特な空気に惹かれていましたが、出会うにつれ彼の内面の穏やかな真っ直ぐさは、彼の外見より何倍も魅力でしたから。だから、まさか彼から声をかけてもらえると思っておらず、私の心臓は少し高鳴りました。
「いえ、無いですけど、流石に悪いですよ」
「あはは、真面目だな。良いって、気にすんな」
彼は、ほら、と私を促しました。誘ってもらえたのは本当に嬉しかったですが、私はただ教室の場所を教えただけです。申し訳ない気持ちも山々でしたが、彼はあまり気にしていないようでした。




