鶯、未完成の青瑠璃。
彼は、美しいひとでした。
校舎の真ん中の小さな噴水の縁に腰掛け、ぼうっと揺れる水面を、どこか未亡人のような雰囲気さえ纏って、その睫毛の先を見つめていました。
都心だということも相まって、大学の多くの学生は、トレンドの服を見に纏っていました。それらは煌びやかで、華やかで。ですが、私の目にそれはやけに安っぽい色合いのように映っていました。
だからこそ、どこで買ったのかもおおよそ見当のつかない、真っ暗な夜を閉じ込めた長いコートを着た彼は異質でした。
薄っぺらい生地に、体のラインを嫌と言うほど強調した服が流行る中、春には似つかわしくない黒いコートの存在は、私の心を掻き立ててやまなかったのです。
何学部なんですか、と言えたならどれほど良かっただろう、と思いました。あの濡羽色の瞳がこちらを向く時、どんな温度がそこにあるのか、興味がありました。
私がどうしようかと迷っていると、彼がこちらを向きました。ゆっくりと見開かれた瞳は、青空の向こうを見つめる鳥のように真っ直ぐでした。
私は息を呑み、ただ何もできずに立ち尽くしていました。冷や汗が背中を伝った感触がし、手を握る力が少し強くなりました。
彼の視線は私を捉えて離しません。命綱を握られているかのような錯覚に陥りながら、私は口を開けては閉じ、たじろぎました。
彼は美しいひとでした。
真一文字に結ばれた唇をゆっくりと動かし、彼が何かを呟きました。
夜を纏ったコートは、春の太陽を反射していて、そのアンバランスさがやけに美しく、私はつい溜息を吐きました。
こちらに目線だけを寄越して、首を傾げて笑っていました。
余裕そうな彼とは対照的に、カラカラに乾いた喉を鳴らし、私はそっと会釈をしました。距離おおよそ数メートルが、ひどく遠いようにも、近いようにも思いました。
そんな私の様子などお構いなしに、黒曜石のような瞳は真っ直ぐにこちらを射抜いたままで、私はやはりその場を動けませんでした。
彼はそんな私を一瞥し、ゆっくりと立ち上がりこちらを向きました。ひらり、と真っ黒のコートが風に揺れ、空に反射した艶が、その布が上質なものであることを表していました。
「こんにちは。一年?」
ゆっくりとこちらに歩いてきた彼は、立ちすくむ私を見てそう言いました。
細められた黒い瞳が、微かに青を帯びている事に気付き、私の心臓が音を立てていました。
「迷ったの? それとも、入学式の下見か何か?」
何も言えずにいる私を見て、彼はそう続けました。
私よりも背の高い彼は、思いの外中性的な佇まいで、私はそれにさえ目を奪われてしまい、何かを返答しなければ、と思えば思うほど、私は彼から目が離せなくなるのでした。
息を吸って、いいえ、とやっと答えられた時には、彼は既に半歩引いた位置で首を傾けていました。何の感情もない、まるで精巧な美術品のような顔の中、唯一温度を湛えたその視線は、やはりあの水面でした。
私の返答を聞き、彼は視線をこちらに戻しました。すぐにでもその瞳が逸らされてしまうような気がして、私は矢継ぎ早に口を開きました。
「一年です、少し時間があったので、見て回ろうと思って」
半分は嘘でした。一年とはいえ、今は三月末。ある程度の場所は知っていましたし、見て回るものも特にありませんでした。
私の返答を聞き、彼はふうん、と適当な相槌を打ち、結ばれていた口を解きました。
「学部は?」
「理工学部です」
「情報系なの?」
建築を、と言おうとして、私は口を閉じました。一年の間は、専門的な内容とは無縁の、所謂一般教養ばかりだったからです。先程は軽く嘘を混ぜたばかりだと言うのに、建築を、と言うのは何故だか憚られました。
「建築学科です。でも、専門分野はまだ習ってなくて。今は一般教養とか、そんな感じのものばかりです」
「へえ」
「失礼ですが、何年生なんです?」
「俺? 三年。この大学の学生じゃないけどね」
「え、じゃあ……」
何のために、とか、どこの大学に、だとか、頭に浮かぶあれこれを訊いてもいいのか迷っていると、彼は少し笑いました。
「ここに友達がいるんだよ。だから待ってる。東京藝大ってわかる? 俺、そこの三年」
彫刻のような、絵画のような、どこかこの世の者ではないような彼の雰囲気が、藝大という場で作られたものなのか、と感心すると共に、意外と話しやすい相手でもあったことに私は少し驚いていました。他人を寄せ付けないような、ゾッとするほど冷たい美しさを持つ彼が、こんなにも穏やかに話してくれるだなんて、思ってもみませんでした。
「迷ったのかと思ったけど、そうじゃないなら俺はもう行くよ」
彼はそう言って、ひらりとコートを翻しました。ふわり、と肩にかかるくらいの髪が揺れて、光を投下して少し透明に輝いていました。
「あの……、名前、訊いてもいいですか」
「ん?」
「あの、絵に興味があって」
ああ、と頷いた彼は、微かに笑いました。舌の上で飴を転がすかのような、柔らかい声色でした。
「小鳥遊葵月。俺の友達も理工学部って言ってたから、また会うかもね」
彼は目を伏せ、今度こそ私に背を向けて歩いて行きました。夜を纏ったコートは、近くで見ると少し柔らかい色をしていました。
これから三ヶ月経った、六月の事でした。彼は六月を冠したその名前と、彼の創った数々の絵を共にして、私の前から姿を消しました。




