月光、花筏と慈涙。
夜十一時を回った頃でした。アルコールの香りに酔いながら、私はぼんやりと家族のことを考えていました。やっと、私の空虚の中に悲しみが流れてきたような気がしました。全部吐き出してしまえたら、という感情と、それは私が背負っていくべき荷物なのだ、という正しさが、頭の中で混じっていて、結局頭の中の整理はついていませんでした。
私が気付かないうちに、いつのまにか電気はぼんやりとした照明に変わっていました。彼は何も話さないままで、寝ているのか起きているのかこちらからはわかりませんでした。
葵月さんと小さく彼の名前を呼びました。何かを言いたくて、聞いて欲しいと思って、それが良いのか悪いのか、私に判断できるだけの余裕はありませんでした。聞こえていなければいい、と思いながら、私はソファから微動だにしない家主の反応を、少しの緊張と共に伺うのでした。
彼は聞こえているのかいないのか、何も返答を寄越さず、しかし、少しだけこちらを向いたような気がしました。それは、「話していい」という沈黙の返答のように思えました。
「……社会人の姉がいるんですけど、平たく言うと、姉は勘当されて」
口に出すと、思ったよりも言葉は出てきました。言いたかったのだ、と思いました。
それは、彼が、私の友人たちとは違うからでもなく、本当なら関わるはずのなかった藝大生だからでもなく、ただそれは、彼が小鳥遊葵月であるからでした。
自分は何も知らなかったこと、全て終わってから突然連絡されたこと、親はもう姉を見切ったこと、私だけが、家族という繋がりをずっと信じていたこと。私と姉の幸せは違うこと、だけれど、私の中には家族の幸せな記憶があること。
悲しんでいいのか、それは姉の幸せの否定になるか、家族という形に囚われているのは私なのか。
私は今どうすれば良いのか、その答えがわからないこと。
私は、全てをアルコールのせいにして、抱えていた空虚を、彼に吐き出しました。数十分のようにも、一瞬のようにも思いました。
彼が黙ってこちらを見ているような気がしました。雨の音は止んでいて、外は静かでした。
彼はゆっくりとワイングラスを持ち上げ、グラスを少し回し、十秒ほど黙ったあと、小さく息を吐きました。
「……泣けばいいよ。まだ何か取れる手段がありそうであれば、お姉さんや親御さんに、どう思っているのかを訊いてみたらいい。それぞれがもう答えを出した後で、どう頑張っても家族が二度と戻らないのだと理解したなら、その時にもう一度悲しめばいい」
彼は至ってシンプルな答えを、月明かりに乗せました。
泣けばいい、と。
「自分の感情の理由が正しいかどうかは問題じゃない。悲しければ泣いていい、腹が立つなら怒っていい。相手がどうであるかとは別のところで、思うままに言いたいことを言っていい。人にはそれが許されている。……君の家族にとって、元に戻ることが幸せではなくても、ね」
彼はこちらを向いて、日向、と私の名前を呼びました。
「自分の幸せがもう戻らないことに、怒っていい。泣いていい。それを誰も責めない、責める資格がない」
「少なくとも、俺はそうした」と彼は言いました。その声色はずっと穏やかで、まるで詩を詠むようですらありました。
薄暗い部屋の中、少しずつ冷静になった頭と共に目も慣れてきて、彼の横顔が淡い月の光に照らされているのがわかりました。
「そうやって、少しずつ自分の悲しさを理解して、それから、気晴らしに何か新しい事をするなり、自分が一番穏やかでいられる事をするなりして、生きていけばいい。俺にとってそれが絵だったように」
「……それは、どうやって見つけたんですか」
私は震える声で彼に尋ねました。彼はくすりと笑いました。
「俺は藝大生だよ。日向の知らない、『気晴らしになる何か新しいこと』を知ってる」
私は彼の言葉を噛み砕こうと必死でした。どれも、私の心の中にすんなりと入ってきて、私はそれの温度を確かめようとしました。泣けばいい、悲しめばいい、と。私の家族がどうであったとしても、私は私の幸せを思って泣く権利がある、と。
私の母は電話口で「日向は悪くないよ」と言いました。彼はそれを言いませんでした。どちらが正しいかではなく、ただ単に、それらは事実としてありました。
「知ってる? 桜は思ったより灰色だし、林檎は赤じゃない。俺は描いたからわかった。描かなかったら、知らなかった」
やってみたらいい、と彼は言いました。きっとその瞳には、青だけではない色が滲んでいました。私には見えない、彼が今まで時間をかけて拾ってきた色が。
「芸術じゃなくてもいい。とにかく、自分が何を通じて世界を見ているのかを知って、そうじゃない見方をしている人には何が見えているのかを訊けばいい。そうやって、一つずつ、これは好き、これは好きじゃない、これはまだわからないって、自分を構成する要素を探していくんだよ」
グラスが机に置かれる音がしました。彼の言葉の全ての意味を理解するのは難しくはありましたが、私は、それらをゆっくりと考えれば良いのだと思いました。
もしかしたら、私にとっての桜は灰色ではなく白かもしれないし、林檎は赤のままかも知れない。でも、それで良いのだと、言われた気がしました。
続く静けさの中で、彼はそういえば、とつけ足して、穏やかに続けました。
「明日さ、高校の時の陶芸家の美術教諭に呼ばれてるんだけど、よかったら来なよ。面白いかもよ」
ほら、新しい事、案外近くにあっただろ、と暗闇の中で彼は柔らかく笑いました。私は固く目を瞑り、「ありがとうございます」と小さく呟くので精一杯でした。彼はそれに、グラスを微かに揺らし、氷のカラカラとした音を返しました。
五月の夜は穏やかでした。私はその静かさに身を任せました。月は見えませんでしたが、私には見えないところで、きっと白銀に輝いていました。




