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憧憬、硝子と白紙。

 私が目を覚ました時には早朝でした。いつの間にかソファの背もたれは倒されていて、電気の付いていない部屋に微かに朝日が差し込んでいました。

 肩にかけられていたブランケットの手触りを確かめながら、私はぼんやりと辺りを見渡しました。私は少しずつ昨夜の事を思い出して、小さく溜息を吐くのでした。


 昨夜、彼から貰った言葉をゆっくりと噛み砕きながら、ひとまず彼が起きてくるのを待とうと思い、私はイーゼルに置かれたままのキャンバスに目をやりました。


 泣いていい、怒っていい、自分の幸せという尺度で何かを思う事は間違いではない。そして、それらが癒えるかどうかとは別のところで、色々なものに触れて、知らない世界の映し方が自分にとってどうであるかを考えていけばいい。

 それはあまりにもシンプルな答えで、それでいて、簡単にその答えには辿り着けない深さがあるように思えました。それは、彼が芸術家という道を歩んでいるからこそなのか、彼の境遇がそうさせたのかはわかりませんでした。


 しばらく待っても彼は起きてこず、そもそもどこにいるかもわからず、しかし勝手に他の部屋に入るのも憚られ、私は少しずつ明るくなる部屋を見ながら、本棚に置かれた美術史や絵画技法の本の多さに、彼の今までを垣間見るのでした。

 時計は七時半を指していて、申し訳ないと思いつつ勝手に着替えや洗顔等を済ませ、私はそろそろ彼を起こさねばならないと思い、腰を上げました。


「小鳥遊さん」


 とりあえず寝室だと聞かされた部屋をノックしましたが、何回か名前を呼んだものの返答はなく、渋々私はドアを開けました。

 彼は椅子にもたれて寝ていて、私服に着替えていました。どうやら私が目覚める前に既に一度起きていたようでした。

 机の上には読みかけの小説とファイルが置いてあり、この人は文学や芸術が好きなんだろうなと思いました。きっと、昨夜私に渡した言葉も、それで培われたものでした。


「小鳥遊さん、その、時間大丈夫なんです?」


 何度か名前を呼ぶと、彼はゆっくりと瞳を開け、こちらを向きました。前髪に隠れてあまり表情は見えませんでしたが、そのゆったりとした動きに、彼と初めて出会った時を思い出しました。


「……あ、おはよう」


 少し掠れた声で、彼は独り言のように呟きました。

 ゆっくりと私の顔を見て、「ああ、今日先生のとこか」と低く唱えた後、「朝食出したっけ?」とぼんやりと尋ねました。

 私は、いえ、と彼につられ弱く返答しました。彼はそれを聞いて、今行く、とあまり焦点の合っていなさそうな視線を寄越したまま、椅子から立ち上がるのでした。その拍子に、軽い音を共にして、小説とファイルが落ちました。私は、彼がそれを認識する前に拾い上げる事に成功しました。彼はその一連の流れに気付いていないようでした。


 ファイルが落ちたことも、それが保護者記入欄だけが空白の退学届であった事も、それを私が見てしまったことも。


 私は、彼の持つ雰囲気や、その真っ直ぐな飾り気のない優しさに惹かれてこそいましたが、彼が周りに知られたくないであろう事を知りたいとは思いませんでした。

 それは、昨夜彼が私にそうしたように、彼が話したいと思った時に聞く事が、私が彼に返せる唯一だったからです。彼の家族関係の事を知った時こそ、一つでも彼の内面を構成するものを知れた事の嬉しさに似た奇妙な感情に苛まれましたが、少しずつ彼の内側に眠る美しいものを知る度、私はその嬉しさを恥じていました。


 保護者記入欄が白紙の退学届は、彼の不可解だった行動を理解するには十分でした。

 制作するだけ、という言葉の重みも、彼が物理学を筆頭とした、私の大学の講義を受けていることも、一年前からSNSのアカウントが止まっていることも。

 ゆえに、彼がそれに気付いていない事が唯一の幸運でした。私はこの時、退学届を見てしまった事を隠し通そうと決意しました。


 トーストとポタージュを食べ終え、彼の瞳が段々と輝きを取り戻してきた頃、「汚れても良い服の方がいいよー、無かったら貸すー」とやけにのんびりとした声が洗面所から届きました。少し考えてから、これで大丈夫です、と私が返答した頃には、彼は「タッセルピアスの方が好きだな、これ買って正解だわ」と、心なしか楽しそうに笑うのでした。



***



 午前九時頃に私たちは家を出て、彼の案内に着いていきました。風景は立ち並ぶマンションから田園風景に変わり、駅を降りて少し歩いたところで、小さな屋敷のような建物の前に来ました。


「先生の家。自宅兼工房なんだよね、先生が個人でやってる美術予備校でもある。俺はここで陶芸そっちのけでデッサンしてた」


 彼は懐かしそうに目を細め、「先生、陶芸家なのに絵も上手いんだよ」と楽しそうに付け足しました。


 屋敷の中に入り、彼は工房らしき建物の玄関チャイムを鳴らしました。「葵月です」と彼が名乗ると、チャイムの向こうで賑やかな声で返答がありました。「鍵開いてるらしいわ」と彼が笑い、工房の扉を開けました。自分が迷惑ではないかなどと気にしてしまっていましたが、チャイムの向こうの声の明るさに少し安堵するのでした。


「久しぶりね〜、あら、お友達も。良いじゃない、藝大の子? それにしてもあなた変わらないわね〜、私なんてもう肌から水分が抜け落ちて抜け落ちて仕方ないのよ」


 彼が扉を開けると、いかにも美術教諭といった不思議な色の服を着て、なぜかお決まりの赤いベレー帽を被った、おおよそ五十代の女の人がこちらを向いていました。


「お久しぶりです。いえ、理工学部の友達です」


「あら、それは素敵。あなた、お名前は?」


「薬師寺日向です」


「良い名前じゃない、あらやだ、つい話したくなっちゃうのよ。まあまあ、上がって上がって」


 彼の先生は嫌味のない明るさをしていて、彼が私をここに連れてきた理由が少しわかる気がしました。

 彼に習って空いている席に座り、私は、穏やかでありつつ賑やかな雰囲気に安心していました。

 きょうちゃーん、と工房の奥の方から小さな子供の声がして、「犀川京子先生。小学生は先生をきょうちゃんって呼んでる」と彼が小さく耳打ちしました。

 はいはい、と犀川先生がそちらを向き、私はその後ろ姿を見ていました。ふと気になって彼の方を向くと、彼は工房の壁に掛けられた絵を見ていました。私の視線に気付いたのか、「あれは先生の絵だよ」と教えてくれました。彼が先生の絵を見る目は、本当に楽しそうで、まるで宝物を貰った時の少年のようでした。


 私はそれを見て、彼の持つ二面性とは言い難い何かの事や、提出していない退学届の事を考えてしまうのでした。それを結びつける答えは、私の中にはありませんでした。


「さあさあ、葵月さん、好きに描いて構わないわよ、何枚でも。それと……日向さんだっけ? 絵付けでもいいし、その他の事もできるわよ」


 いつの間にか私の反対側に座っていた犀川先生は、彼の前に平皿を数枚置きました。

 先生はこちらを向いて楽しそうに笑い、「何でもあるわ、絵も彫刻も陶芸も。デッサン水彩油絵くらいならそこで中高生に混ざれるわよ。でもまあ、比較的簡単なのは絵付けかしらね?」と言いました。


「絵付けは文字通り皿に絵を描くこと。デッサンは木炭とか鉛筆での模写みたいな感じ。水彩と油絵は自由に描けるよ」


 先生の楽しそうな瞳に若干気圧されていると、彼が苦笑しながら簡単な説明をしてくれました。


「迷ったら絵付けかしらね、作ったお皿はそのまま使えるから贈り物にしたり、自分で使ったりできるもの」


 先生は朗らかに笑ってそう言った後、「まあでも……一旦何が何かを見に行ってみましょうか、やりたいと思ったものをやればいいわ」と私を手招きするのでした。



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