↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/53

第一杯目 着丼!デブラメンジャー⑥

ジロウは走っていた。


吐く息が白い。走るほど喉が冷えて、痛くなる。歩道の植木が根元から倒れ、看板が落ちて、その上を人が越えていく。信号の消えた交差点の真ん中で、車が三台止まっていた。


「鷹志!」


叫んでも、声は人の流れに吸われて消える。外で待つと言っていたのに、店の前にはもういなかった。逃げたのなら、人が流れていく駅の方だろうか。それとも学校か。学校なら、この流れとは逆だ。ジロウは流れに逆らう方へ足を向けた。


そして、路地の入口で足が止まった。女の子が、そこにしゃがみ込んでいる。毛糸の帽子の耳当てに、見覚えがあった。さっき、車道から抱え上げた子だった。片方の靴が脱げて、靴下だけの足を抱え込むようにして泣いている。ボールは持っていない。アスファルトはとっくに冷え切っている時間だ。周囲に、母親の姿はなかった。


「おい」


ジロウは駆け寄って膝をついた。


「お母さんは? どこ行った」


子供は答えられずに、しゃくり上げている。ジロウは自分の呼吸を整えて、できるだけ静かに言った。


「大丈夫だよ」


そして、笑ってみせた。


「俺がいるから」


言った瞬間、その言葉の頼もしさをジロウ自身が信じていた。信じられる根拠が、この三年分ずっとあった。割って入った揉め事。運んだ荷物。庇った一年生。学校のヒーローだからな、と誰かが言った声。


女の子が顔を上げた。ジロウの顔を見て、しゃくり上げを一つ飲みこむ。泣き声が、それで止まった。さっきの、足の速いお兄ちゃんだと分かったらしかった。


「立てるか。手、貸すから」


子供がおそるおそる手を伸ばしてきた。その手が、途中で止まった。


子供の目が、ジロウの背後を見ていた。


---


路地の奥から、青い異形が出てきた。


背丈は人と同じくらいだった。水に濡れたような皮膚。頭の上が平たく窪んでいて、そこに水が溜まっている。目のあるはずの場所に、目はなかった。


一体ではなかった。二体、三体、四体。狭い路地の奥から、次々に出てくる。


「アオガッパ」


一体が言った。


「アオガッパ、アオガッパ」


別の一体が言った。誰に向けて言っているのかも分からない。ただ、その音だけを繰り返しながら、四体がゆっくりと距離を詰めてくる。


ジロウは子供を後ろへ押しやった。


「下がってて」


道端に鉄パイプが落ちていた。倒れた仮囲いから外れたものらしい。ジロウはそれを拾い上げ、両手で握って正面を向く。鉄が冷たい。握った手のひらから熱を吸っていく。重さも竹刀とは違う。重心が先にありすぎる。だが構えは同じだ。


一体ずつなら。


そう思った。路地は狭い。この様子なら、四体を同時に相手する必要はない。一番前の一体を倒せば、次が来るまでに間が空くだろう。体の芯が冷えていた。剣道の試合前と同じ冷え方だった。ジロウはその感覚を知っていて、そして信頼していた。


先頭のアオガッパが腕を上げた。その腕が最も高く上がりきった、そこにジロウは踏み込む。腰から入る。アスファルトを蹴る。パイプが軋んで、鉄の芯が手のひらを噛んだ。竹刀より重い。重い分だけ、落ちるのが速かった。


上から下へ。振り下ろす。頭の窪みの縁に、確かに当たった。


弾かれた。


音がおかしかった。殴りつけた石が跳ね返るときのような、硬い音だった。衝撃は手首から肘、肘から肩へ一気に走り上がり、その先で行き場をなくして首の後ろに抜ける。鉄パイプが手の中で回った。掴んでいられない。がらん、と乾いた音を立てて、二メートル先のアスファルトに落ちる。指が開いたまま戻らなかった。痺れている。握れと命じても、脳内で命令が途中で消えていく。


「……え」


打ち方は間違っていない。踏み込みも、振りかぶりも、刃筋も、悪くなかった。左足の引きつけまで、今日一番うまくいったくらいだった。それでも通じない。


「アオガッパ」


すぐ横で、声がした。二体目だった。


一体ずつ来る、という前提が、そこで崩れた。路地は四体が横一列に並べないだけで、二体なら肩を並べて入ってこられる。相手は順番など考えていない。四体いるから、入れるだけ入ってくる。


腹に、何かが入った。殴られたと理解するより先に、体が浮いている。背中が閉まった店のシャッターに当たり、波板が湾曲して、鈍い太鼓のような音を立てた。息が全部出た。吸えない。吸おうとすると腹の底が痙攣して、代わりに唾が出る。膝が地面についた。


「アオガッパ」


三体目が、上から来る。腕で頭を庇った。骨まで届く衝撃が、腕を通り抜けて頭蓋に入った。とっさに庇ったつもりが、庇った腕ごと打たれている。


「ぐ、っ」


四体目が横から蹴った。体が二回転して、電柱の根元で止まる。視界が白く点滅した。点滅の隙間に、傾いた路地と、脱げた靴と、自分の指が見えた。


「げ、ほっ」


四つん這いで咳をする。喉に鉄の味がした。頬がアスファルトに触れている。冷たい。


──なんだ、これ。


分からなかった。一体相手にもまともに戦えず、その間に四体が次々と殴りにきた。段取りも、駆け引きも、間合いの取り合いもない。道場で覚えてきたことは、一つも使う場所がなかった。


体を起こそうとした。腕が入らない。膝が笑っている。顔を上げると、四体のうち三体が、子供の方を向いていた。


「待て」


声にならなかった。踏み出そうとした左足が、一拍残った。腕を伸ばした。届かない。地面を掻いた。爪の先がアスファルトを擦って、指の腹が裂けた。子供が悲鳴を上げて後ろへ逃げようとして、脱げた靴に躓いて倒れる。その頭の上に、青い腕が振り上げられた。


ジロウはそこで初めて理解した。


自分が、この子をここに留めたんだ。


大丈夫だよ、俺がいるから。その言葉を信じたから、この子は逃げずにここにいる。逃げる時間はあったはずだ。この路地に自分が駆け込まなければ、この子はもっと先へ走っていたかもしれない。


体が動くから、動けば何とかなると思っていた。それは平和な学校の中で、力ずくで片のつく範囲のことしか、起きていなかったからだ。


「や、めろ」


腕を伸ばす。指が、宙をかいた。子供の脱げた靴にも届かない。


腕が振り下ろされる。そのとき、ジロウの頭の上を、何かが越えていった。緑の装甲だった。


緑は女の子の前に降りて、振り下ろされた腕を剣で受けた。受けきれずに膝が沈む。それでも押し返して、アオガッパを路地の奥へ突き飛ばした。


「下がってて! その子、見てて!」


女性の声だった。装甲の内側で反響して、くぐもっている。


緑は路地の幅いっぱいに立った。後ろに、女の子とジロウがいる。避ければ、後ろへ通してしまう。だから緑は、来るものを全部、正面で受けた。一体目の腕を剣で弾く。二体目の体当たりを肩で止める。三体目の腕が脇腹に入って、装甲がきしんだ。剣を横に払って、二体まとめて壁際へ押し戻す。押し戻した先から、また来る。一歩も下がらない。受けるたびに装甲の縁が欠けて、光の粒になって散っていく。


四体目の腕が、緑の胸に真正面から入った。体が、ジロウの横まで滑ってきて止まる。装甲が、ほどけた。胸から肩へ、肩から腕へ、光になって解けていく。中から現れたのは、コートの女だった。さっき、ココアをくれた人だった。


女はアスファルトに手をついて、肩で息をしていた。頬に擦り傷ができている。倒れた拍子に、握っていた黒い腕輪と、帯から抜けた赤い板が、ジロウの膝の前に転がった。ジロウはそれに手を伸ばした。


「あの店の店長は、君にもそれ使わせるつもりだったみたいだけど。……私が来たからには、未成年が無理して戦うことないの。下がってて!」


息が上がっている。女は自分の左手首の腕輪に、緑の板を押しこんだ。


「……マシマシ、チェンジ」


腕輪の縁が一度だけ薄く光って、消えた。女は息を吐いて、板を抜き、もう一度押しこもうとする。立ち上がりかけた膝が崩れた。壁際で、アオガッパが起き上がりはじめている。


「……なんで、助けに来てくれたんですか」


女は、少しだけ笑った。


「だって、君、友達探して走ってったじゃん。一番に。……あんなの見ちゃったら、そりゃね」


ジロウは、女の手を見た。アスファルトについた指が、細かく震えている。ココアの缶を包んでいた手だった。


女の子が、ジロウの背中に張りついて泣いている。ジロウは、震えの止まらない自分の手で、黒い腕輪を拾った。女の手は、それを押さえなかった。左腕に巻くと、留め具がかちりと鳴った。赤い板の幅は、差し込み口の幅と同じだった。


食券を、差し込む。


「マシマシチェンジ」


---


腹の底、さっき丼で満たしたその場所から、熱が上へ突き上がってきた。血管を通って、肩へ、腕へ、指先へ。息を吸うと肺の内側まで熱かった。


裂けた指の痛みが、消えた。背中を打った痛みも、腕の骨まで届いた衝撃も、全部が引いた。視界に薄く赤い色がかかった。


そして──軽い。


さっきまで膝が入らなかった体が、今は指一本の先まで届く気がした。


「……は」


自分の両手を見た。赤い装甲が、そこにあった。右手には、剣が握られている。一度も握ったことのない得物だったが、握り方が分かった。


「アオガッパ」


壁際から四体が起き上がる。先頭の一体が腕を振り上げて突っ込んできた。さっき生身の体を一撃で吹き飛ばした、あの腕だ。


前へ出る。踏み込みは、いつもと同じだった。腰から入って、アスファルトを蹴って、真っ直ぐ。


ただし今度は、地面が砕けた。


踏み込んだ足の下でアスファルトが円形に陥没し、放射状に亀裂が走る。竹刀のときなら床に吸われて止まる力が、止まらずに体を前へ運んでいく。前へ飛んだ。飛びながら振りかぶって、上から下へ。


刃がアオガッパを頭から断った。手応えがなかった。竹刀なら必ずある、当たった瞬間の押し返しがない。ただ通った。体が二つに分かれ、両方が煙になって崩れていく。一撃だった。


自分の右手を見る。震えていない。さっきまで、鉄パイプを持っていられなかった手が。


「っ」


二体目が横から来た。反射で跳ぶ。跳びすぎた。閉まった商店の庇の上まで届いてしまい、着地でよろけて、踏んだトタンが大きく凹んだ。


「わ、わ、わっ」


足が思ったところに置けない。地面の位置だけが記憶と食い違っている。


体が先に半分でいいと覚えた。庇を蹴って下りる。今度は加減した。膝が沈み、沈んだ分だけ体が止まる。着地はうまく決まった。


二体目が突っ込んでくる。そこで間合いを思い出した。この剣は竹刀より長い。腕の長さも、一歩の幅も、さっきまでとは違う。ということは届く場所が違う。ならば待つ位置も違う。


一歩待った。引きつける。近い。まだ近い。相手が踏み込んでくる、その瞬間に合わせて出る。


出ばな。


刃が頭の窪みを真っ二つにした。今度は、自分で当てた。


「っ、はっ」


三体目と四体目が同時に来る。同時ではあったが、揃ってはいなかった。片方が半歩早い。早い方へ体を寄せた。寄せることで、遅い方の進路を早い方の背中が塞ぐ。二体が縦に並んだ。


剣を横に払う。払った刃が三体目の胴を捉え、振り抜いた勢いのまま体が回った。回りきったところに、詰まって足を止めた四体目の頭がある。


そこへ、上から。


煙が二つ、続けて上がった。路地に静けさが戻る。肩で息をしながら立っていた。そして、ゆっくりと振り返る。


子供が地面に座ったまま、目を丸くしてこちらを見上げていた。泣き止んでいる。


「……立てるか」


出てきた声が、自分の声ではないように響いた。装甲の内側で一度反響してから外へ出ていく。


子供がこわごわと手を伸ばしてくる。途中で止まった。さっきと同じ止まり方だった。今度は、後ろに何もいない。それでも止まった。


膝をついて、高さを合わせた。手を、取った。小さかった。指の一本一本が、装甲の指の半分もない。


振り返ると、女が壁にもたれて座っていた。肩で息をしながら、こちらを見ている。目が合うと、女は親指を一本、立ててみせた。


路地の入口に、店主が立っていた。いつからそこにいたのか、ジロウには分からなかった。息一つ乱れていない。店主はジロウの左手首の腕輪を見て、それから、壁にもたれている女の顔を見た。女は、店主を見返しただけだった。


---


子供は消防団の詰所で母親と合流した。名前を呼び合って抱き合う二人を見て、ようやく息が普通に吸えるようになる。


「ありがとう、ありがとうございます」と母親は何度も言った。誰に言っているのか、はっきりしていなかった。赤い装甲の相手にどう礼を言えばいいのか分からないのだろう。女の子は母親の肩越しに、まだこちらを見ていた。少し離れたところで、あの女が女の子に手を振っている。


「……いえ」


それだけ言って、背を向けた。歩き出してから、口を開く。


「あの子、俺があそこに留めたんです。大丈夫だよって言って、俺がいるからって言って。だから逃げなかった」


店主が隣を歩いている。瓦礫を避ける足取りだけが、妙に落ち着いていた。


「そうだな」


否定されなかった。


「……そうですよね」


「だが、助けたのもお前だ。反省は後にしろ。あれはまだ街にいる」


大通りの方向で、何かが崩れる音がしている。そちらを見た。


「なら、行きます」


ジロウは走り出した。足音が一つ、横に並んだ。息を整えてからの、小さな「マシマシチェンジ」が聞こえて、緑の装甲が、隣を走っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。