第一杯目 着丼!デブラメンジャー⑤
丼を空にして、箸を置いた。腹の中が重い。息をすると、体の内側から豚の匂いが上がってくるようだった。九分か、それくらいだろうか。半年前より、ずいぶん速く食べられた。ジロウは丼を持ち上げ、カウンターの上段に返した。
「ごちそうさまで──」
床が、揺れた。
「え」
空になった丼が、カウンターの上で同時にかたかたと震えている。
外から悲鳴が上がる。一つではない。いくつもの声が同時に上がって、それが道の向こうへ流れていく。走る足音。車のクラクションが途中で切れるように途絶えた。
「なに、これ」
金髪の男が椅子から立ち上がる。そして、外の光が遮られた。湯気で白く曇った引き戸の硝子の向こうを、何かが横切ったのだ。人ではない。人の背丈の倍近い、濡れたような輪郭が、ぬるりと動いた。続いてもっと小さいものが何体も、その後を追って通り過ぎていく。
「おい、なんだよあれ」
ジロウはそこで思い出した。
鷹志は外にいる。
ジロウの椅子が後ろへ倒れた。厨房で玉杓子を握っていた店主が顔を上げる。
「いよいよ始まったか」
声が低い。ひどく落ち着いていて、この状況に合っていない。だがジロウの頭には、外の異常な音しか入っていなかった。
「おい、待て」
店主の声が飛んだときには、もう引き戸に手をかけていた。
「友達が外にいるんです!」
「よせ、出るな!」
背中で、その声を振り切った。外の空気が、いつもと違う匂いをしていた。
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店内には、四人が残された。
「……今の子、大丈夫かな」
スーツの男が、開いたままの戸口を見ている。誰に聞かせるでもない言い方だった。
「知らないですけど、俺らも逃げた方がよくないですか」
金髪の男が戸口へ向かおうとする。その足元へ、何かが放り出された。黒い装置が四つ。腕に巻くベルトのような形をしている。そしてその上に、四色のプラスチックの板が並べて置かれた。券売機から出てくる食券と、同じ大きさ、同じ形のものだった。
「腕に巻け。板を差し込め」
店主が言った。力んだ声ではない。もう決まっていることを読み上げる言い方だった。
「は? なんですかこれ」
「今、外に出てるものは、人間の武器では死なない。銃も車も効かん。警察も自衛隊も止められん」
「いや、あの、何の話してます?」
「止められるのは、その腕輪を着けて変身した者だけだ」
キャップの女が腕輪を一つ拾い上げる。裏返して、繋ぎ目を見た。溶接の跡も、ネジ穴もない。それから店主を見た。
「これは何で、あんたは何者で、なぜ私たちなんだ。順番に説明してもらいたいところだが」
「時間がない」
「そうだろうな。だから一つだけ聞く。──着けなかったら、私たちはどうなる」
店主が初めて女の顔を見た。
「今のお前たちには、逃げる足すら残らない」
「では、着けた場合は」
「動けるようになる。それだけは保証する」
女はしばらくその腕輪を見ていた。そして、腕を通した。
「おい、正気か!?」
「正気ではないな。だが、死ぬよりかはいいだろうな」
そのとき、外で音がした。一つではない。硝子が割れる音と、金属が引き裂かれる音と、その隙間を縫って上がる悲鳴が、通りの向こうから順に近づいてくる。
四人が同時に戸口を見る。開いたままの戸の向こう、通りの端を、脂に濡れた巨体が横切っていくところだった。背の高さは店の看板を越えている。全身が脂を纏ったように光り、輪郭が絶えず垂れている。それが歩きながら腕を振っていた。狙いがあるわけではない。歩く邪魔になるものを、順番に払っているだけの動きだった。
払われた自販機が宙を飛んだ。回転しながら通りを横切り、魁星の引き戸を枠ごと持っていく。硝子が店の床まで散った。四人が反射的に頭を庇い、寸胴の湯が跳ねて、湯気が一気に外へ抜けていった。
「うおおおおっ!?」
奥から声が上がる。洗い場のアルバイトの女が、丼を一つ抱えたまま飛び上がっている。抱えた丼を落としもせず、そのまま両手で胸に押しつけて固まっていた。
「え、なに、なんですか今の! 扉! 扉が!」
「高木」
店主が振り返りもせずに言った。
「外へ出たら、駅と反対へ逃げろ」
「え、でも洗い物が」
「いいから行け」
「はい!」
アルバイトの女は抱えていた丼を流し台へ戻し、エプロンを外しながら、枠ごとなくなった戸口から駆け出していく。
「おやおやァ。逃げる逃げる、よく逃げるわァ」
粘つく、妙に節のついた声が、通りいっぱいに響いた。あの巨体から発せられる声だ。
「逃げてよいぞ、逃げてよい。追いかけっこは大好物でなァ」
その足元を、青い小さな影が何体も走り抜けていく。散った人の背中を、一体ずつ追いかけていた。
「そらそら、苦しめ。叫べ。いい声で鳴いてみせェ」
「ヒッ」
スーツの男が唾を飲み込んだ。
「……あれ、この店を襲うんじゃないですか」
「この店に用はないだろうな」
店主が言った。
「通りかかっただけだ。この道は突き当たりで曲がる。曲がった先は駅前だ。あそこには、まだ人がいる」
外で、また硝子が割れた。さっきより遠い。音が遠ざかっていくのを聞いて、キャップの女が戸口の方へ一歩出た。
「やるか、やらんか」
店主が言った。
「今決めろ」
金髪の男が、床に転がった黄色い板を掴み上げる。
「……クソが。しゃあなし!」
「食券を差し込んで、マシマシチェンジと言え」
「え?言わなきゃなんですか、それ」
「言わないと変身できんぞ」
四人がそれぞれの板を腕輪へ挿し込んだ。がしゃん、と食券を通す音が、四つ重なった。
「マシマシチェンジ!」
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体が熱くなった。
四人とも、同じ場所からだった。丼で満たしたばかりの腹の底。そこから胸へ、肩へ、指先へ、順番に押し上がってくる。
光が収まったとき、狭い店内には黄、緑、白、黒の四色の装甲が立っていた。自分の体を確かめる時間は、誰にも与えられなかった。四人の手に、同じ剣が一本ずつ握られている。
『ワシワシメーンだ』
店主の声が、耳の内側に響いた。
『剣だからとにかく振れば斬れる。今はそれだけでいい』
「説明が雑すぎるだろ!」
黄色が叫びながら、それでも剣を構える。長い。両手で握ってちょうどいい長さで、刀身が太い。刃には細かい節が刻まれていて、光の当たり方で波打って見えた。構え方に迷う様子は、四人の誰にもなかった。
『行け。あの怪物に追いつけるうちに』
「店長」
緑が、カウンターの向こうを振り返った。声が装甲の内側で一度反響した。
「さっき飛び出してった子、私、探してきます」
店主は緑の面を一度だけ見た。それから前掛けのポケットに手を入れて、黒い腕輪をもう一つと、赤い板を一枚出した。
「持っていけ。あいつの分だ」
緑は少しのあいだ、それを見ていた。受け取って、赤い板を腕輪の帯の内側に挟み、黒い腕輪は左の手に握りこむ。
黄色が真っ先に戸口から飛び出した。
「うわ、止まんない!」
体が止まらずに通りを横切り、向かいの電器店のシャッターに肩からぶつかる。
「なんか!なんか関節が言うこと聞かない! なんですかこれ!パワーが制御できないって!」
二人が続けて路上へ出た。緑だけが、反対の、駅の裏のほうへ駆けていく。通りには、もう誰もいない。倒れた自転車。開いたままの鞄。片方だけ残された手袋。信号だけが、何事もなかったように色を変えている。さっきまで悲鳴を上げて走っていた人たちは、一人も残っていなかった。
その通りの先で、巨体が足を止めていた。ゆっくりと振り返る。垂れた脂が路面に糸を引き、落ちた先で白く固まった。
「ほォ」
「おい、そこの化け物」
黒が呼んでから、三人の前に出た。
「こっちだ」
「なんで呼ぶんですか! こっち来ちゃうじゃないですか!」
白が言った。
「呼ばなければ駅前へ行く。人の多い場所で暴れられる方が、面倒だ」
黄色が言い返す前に、脂の腕が飛んできた。黒は跳ばなかった。軌道の横に刃を当て、力の向きだけを逸らす。腕は黒の脇を通り過ぎ、街路樹の幹を叩き折って、そこで止まった。
「広い場所だな」
黒が言った。
「店の中では、さすがにこの剣は振れないからな」
「落ち着いてるなああんた!」
黄色が距離を取り、走り込んで横から斬りつけた。勢いの乗った刃が脂の膜に食い込んで、確かに裂けた。
「おっ、いける!」
白が反対側から振りかぶり、車道の白線を踏んで、巨体の脛へ真上から振り下ろした。刃は止まらずに最後まで落ちきって、脛の膜を縦に割る。
「あ、当たりました! 俺、当たりました!」
「……おかしい」
黒が言い終える前に、黄色がもう次を斬っていた。
刃は通っている。だが、裂けた膜が閉じていく。垂れてきた脂が裂け目を上から埋め、三つ数えるほどの間もなく、元の面に戻った。白が割った縦の線も、下から順に消えていく。
「……え、傷口閉じてません? 今」
「斬った端から裂け目が埋まってる」




