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第一杯目 着丼!デブラメンジャー④

魁星の前を通るのは、通学路の帰りにほとんど毎日のことだった。


いつも列ができている。歩道の端に沿って、店の前から角を曲がったところまで。十五人か、多いときは二十人。学生服の集団も混ざっていて、ジロウはその横を自転車で通りながら、よくあんなに待てるなと思っていた。


だから今日、角を曲がった瞬間に、ペダルを踏む足が止まった。


「あれ」


「え、これだけ?」


四人だった。歩道に寄せて一列に並んだ客が、誰も喋らずに立っている。角までどころか、店の前から三メートルも伸びていない。


「いつもこんなじゃないの?」


「違う。いつもはもっといる。……今日、タダ券が出てる日だぞ」


「増えるよな、普通」


自転車は店の二軒手前に停めた。列の四人が、一定の間隔で白い息を吐いている。


ジロウは最後尾、黒いキャップの女の後ろについた。鷹志が隣に来る。


一人おいた前で、女が振り返った。緑のメッシュが揺れる。ジロウを見つけて、目を丸くした。


「あ、さっきの!」


ジロウは口を開けたまま、絆創膏の手を小さく上げた。


「ここ、来たことあるの?」


「半年前に一回だけ。全然食べきれなかったです」


「えー。じゃあなんでまた来たの」


「リベンジです」


女が吹き出した。


「いいね、それ。ナイストライ」


女がもう少し身を乗り出したところで、あいだに立っているキャップの女の視線とぶつかった。キャップの女が、短く咳払いをした。女は首をすくめて、口の形だけで、あとでね、と言い、前を向いた。鷹志が、肘でジロウの脇をつついた。


そのとき、戸の内側で何かが動いた。硝子越しに下がっていた「準備中」の札が裏返って、「営業中」になる。戸は、まだ開かない。


店の中からは寸胴の湯気と換気扇の音、それに玉杓子が寸胴の縁を叩く、規則正しい金属音が漏れていた。かん、かん、かん。三度で一組になっている。間隔が正確すぎて、機械の音のように聞こえた。


寒い日の湯気は濃い。換気扇から出た分が上に抜けきらず、庇の下に溜まって、そのまま歩道へ垂れてくる。醤油と豚の脂と、焦げたニンニク。一度嗅ぐと鼻の奥に残り、次に息を吸ったときにはもう空腹になっている。稽古のあとの体には、効きすぎるくらいだった。


「うわ、強烈。この匂いだけで腹が減る」


鷹志が言い、ジロウは頷いた。


先頭に、金髪の若い男が一人。イヤホンを片耳に突っ込んで、体をわずかに揺らしている。軽装だった。薄手のブルゾンに細身のパンツ、足元は履き潰したスニーカー。この寒さで上着はそれ一枚きりで、斜めがけにした小ぶりのバッグのほかは何も持っていない。洒落てはいるが、飾りらしい飾りが一つもなかった。いつでも走り出せる格好だ、とジロウは思う。実際、体を揺らすたびに踵が浮いていた。


その後ろに、太めの体をスーツに押し込んだ男が立っている。二十代の半ばくらいだろうか。鞄を前で抱えて、やや前かがみに、いかにも遠慮がちに立っていた。ただ並んでいるだけなのに、なぜか申し訳なさそうにしている。髪は整髪剤で横に分けてある。ただ、汗で額に貼りついて、分け目の左右がどちらも崩れていた。この寒さで汗をかくほど、急いで来たらしい。


三人目が、さっきの女だった。ジロウのすぐ前のキャップの女は、店の外観を写真に撮っている。一枚撮ると角度を変えてもう一度撮り、それからまた角度を変える。キャップの下から、明るい茶色の髪が肩まで落ちていた。顔立ちは整っている。それでいて、こちらが見ていることに気づいても何の反応も返さなかった。目が合って、そのまま外れた。年齢の見当がつかない。


それからは、誰も喋らなかった。前の四人は互いに知り合いでもなんでもないらしく、ただ、同じ方向を向いて立っている。時々、店の中から金属音が漏れてくると、そのたびに全員の背筋がわずかに伸びた。


一番前の男が、片手でスマホを持ち替えた。画面が一瞬こちらを向く。同じ画面だった。


「やっとだよ」


金髪の男が、誰にともなく言った。


「三十分だぞ。営業時間中なのに準備中で誰もいねえし」


前の三人は誰も返事をしなかった。男も独り言だったらしく、そのままイヤホンを耳に押し込み直した。


貼り紙は何枚も貼ってあるが、並び方も、入り方も、どこにも書いていなかった。こういう空気だったな、とジロウは思い出した。


そのとき、引き戸が開いた。中からは誰も出てこなかった。流れ出た熱気だけが歩道の冷たい空気にぶつかって、戸口のあたりが白く濁る。


「次、入って」


戸の内側から低い声が飛んだ。前の四人が一斉に動いた。ジロウも続いた。


---


店内は、記憶より狭かった。L字のカウンターに椅子が十ばかり。壁は油と湯気で黄ばみ、その上に貼り紙が何枚も重なっている。読んでも、いま自分が何をすればいいのかは一つも書いていない。


入ってすぐ左に券売機がある。前の四人がそこへ順に並んだ。


厨房には男が一人と、その奥にもう一人。奥にいるのはアルバイトと思しき若い女だった。エプロンをして、洗い場で丼を積み上げている。手を止めずに、こちらへ小さく会釈をした。それきり手元へ戻る。


そして、店主と思しき男。背が高く、肩が異様に厚い。頭に手拭いを巻き、腕まくりした前腕が、寸胴に差した玉杓子を握ったまま盛り上がっている。飲食店の店主というより、何か肉体労働か、あるいは反社会的な仕事でもしている雰囲気がある体つきだった。年は五十を超えているだろうか。眉のあいだの皺が深い。その男がこちらをちらりと見た。やはり怖い。


前の四人が券を買い終え、カウンターの手前へ寄って立った。ジロウの番になった。


「小ラーメン」「小豚入り」「大ラーメン」「大豚入り」。その下の段に「生玉子」「うずら」「ねぎ」。


半年前も、この前で固まった。値段の違いも、何が増えるのかも覚えていない。無料券は今日限りで、小ラーメン一杯だ。次はない。画面のいちばん下に、小さな字で但し書きが出ている。大へ変更の場合は差額百円をカウンターにて申し受けます、とあった。


稽古のあとの腹だった。胃の中は空っぽだ。百円で倍近くになるなら、その方が得ではないか。


指が、無料券をかざす手前で止まった。そのまま上の段の右へ滑って、「大ラーメン」の表示の上でもう一度止まる。


「あの」


横から、小さな声がした。券を買い終えたスーツの男が、カウンターの手前から体を半分だけこちらへ向けている。目は合わせない。券売機の方を見て言っていた。


「大は、やめておいた方がいいと思います」


「え」


「ここの小、よその大盛りくらいあるので。慣れてなさそうでしたので……すみません、余計なことを」


言い終わる前に、スーツの男はもう前へ向き直っていた。半年前に食べたものが、そこでようやく思い出せた。丼の縁より高く積まれた野菜。あれで小だ。あれを食べ終わるのに十五分かかったのだ。危なかった。


ジロウは無料券をかざした。がちゃん、と機械が鳴って、小ラーメンの券が一枚出てくる。


後ろで鷹志が買っている音を聞きながら、ジロウはカウンターの方へ体を向けた。そのとき、店主がカウンターの向こうから手を上げた。その掌は、ジロウの肩越しに鷹志へ向いていた。


「番号は」


「え」


「クーポンだ。持ってないなら、次のロットだ」


鷹志が券を持ったまま固まった。


「あの、俺ら二名なんですけど」


「一度に茹でるのは五杯だけだ」


店主はそれだけ言って、茹で釜へ向き直った。麺の玉を一つずつテボに入れ、五つ並べて湯へ沈める。菜箸で麺をほぐす水音が、店内の空気を叩いた。


「……席、空いてますよね」


鷹志がカウンターを指した。実際、椅子は半分しか埋まらない。


「空いてても入れない」


「なんでですか」


「ロットだからだ」


にべもなかった。鷹志がジロウを見た。


「……なんかごめん」


「お前が謝ることじゃないだろ」


「先食っててよ。外で待ってる」


「一緒に食おうって言ったのに」


「言ったけどさ。こういう店なんだろ、たぶん」


鷹志は肩をすくめて、券を握ったまま外へ出ていった。ジロウはその背中を見送ってから席に着いた。いかにも初心者お断り、という感じだ。融通が利かないのもそういうものなのだろう、と思うことにした。


---


同じロットに通されたのは、先に並んでいた四人で、ジロウが最後だった。


ジロウの左隣がスーツの男。その向こうに金髪の男。一番端に、さっきの女。そしてジロウの右、L字の曲がった側に、キャップの女が座った。


金髪の男は席に着くと同時にイヤホンを外して首にかけた。それからバッグの口を開け、中から手帳ほどの大きさのアルバムを取り出す。名刺ほどの縦長の写真を差すための、透明なポケットが並んだものだった。開いたページに、その男と若い女が二人並んで、指でハートを作っていた。アイドルと撮ったチェキ、というやつだろう。男はそれを見つめ、めくって、また別の一枚を見ている。こんな脂ぎった店内で取り出すものでもないだろうと内心思った。


右隣のキャップの女は卓上の調味料を一つずつ持ち上げて確かめている。胡椒、酢、一味。持ち上げて、量を見て、戻す。それからスマホを構えて、その卓上調味料を撮影していた。


行儀がいいと思えるのはさっき出会った女とスーツの男だった。膝の上で指を組んで、真っ直ぐ前を向いている。


妙な列に混ざったな、とジロウは思った。通学中によく見る列とは、顔ぶれが違う。学生服も、作業着も、今日は一人もいない。


湯気が上がった。店主がテボを持ち上げ、腰から鋭く振る。ばしゃん、と水が切れる。それを五つ、続けて。丼が、カウンターの内側に並んだ。


ジロウはカウンターに身を乗り出した。この後、ニンニクなどの無料トッピングを入れるかどうかを言うのだ。半年前、何も言えないまま丼を受け取ったのを覚えている。今度は先に言っておこうと思った。


「あの、ニンニクは……」


「まだですよ」


左隣から、小さな声がした。


「聞かれてからで、大丈夫です」


「すみません」


自らの短慮を恥じながら、ジロウは丸椅子に座り直した。


「左から。ニンニク入れますか」


「ヌキで」


一番左端の女が答えた。


「ヤサイマシマシ、ニンニク、アブラマシで!」


金髪の男だった。言い慣れている。


「ニンニク少なめで」


スーツの男の声は、券売機のときとまったく同じ大きさだった。


そしてジロウの番になった。店主の目が、こちらを向いた。


「ニンニク入れますか」


「……アブラ、マシで」


言えた。半年前は「あ、えっと」で終わって、何も入らないまま丼が出てきたが、今日は言えた。なんとなく達成感がある。


「ヤサイマシ、アブラマシ、カラメ」


右隣に座る黒いキャップの女の声には、淀みが一つもなかった。


「あいよ」


丼が、左から順に置かれていった。三つ目を受け取ったところで、黒いキャップの女が口を開いた。


「先に言っておく」


店主は手を止めなかった。


「無料券をもらったからといって、忖度はしない」


「何のことだ。仕事中だ。話しかけるな」


女はそれきり割り箸を割って、丼に向き直った。


丼が置かれた。


正面から見ると、まず高さに驚く。丼の縁より上に、茹でたモヤシとキャベツが山になって積み上がっている。その斜面に白い脂の塊が乗って、じわじわと崩れていく。山の向こう側からは、豚が二枚、丼の外へはみ出していた。枚と数えるのがためらわれる厚みだった。切り分ける前の塊を、そのまま二つ置いたように見える。


匂いが、顔ごと包んできた。醤油の塩気の奥に、豚を長く煮た匂いがある。甘い。ニンニクの尖った香りが、その上を突き抜けていく。


ジロウは手を合わせて、小さく「いただきます」と言ってから、箸を入れた。半年前は、上から順に食べようとして失敗した。野菜ばかりが減って、下の麺が伸びきってからようやく辿り着いた。あのときの、水を吸って膨れた麺の感触を覚えている。


今度は先に下から掘った。箸が野菜の山を抜け、スープに沈み、その底で固い抵抗に当たる。そこを掬い上げた。


麺が現れる。太い。平たくて、縁が波打っている。一本一本が別々の方向へ縮れていて、束にならない。持ち上げると、重さで垂れて丼へ戻ろうとした。腕に力を入れて、そのまま山の上へ運ぶ。上下を入れ替えた。麺が上、野菜が下。沈んだキャベツが、スープの熱で色を変えていく。


口に入れると、顎が要るという感想がまず出てきた。麺の抵抗が強い。前歯では切れず、奥まで運んで噛み潰すことになる。噛むたびに小麦の味が出てきて、それをスープの塩気が追いかけてくる。追いついたところで、脂が溶け出す。脂は甘かった。マシにしてよかった、と思う。


二口目は、野菜を挟んだ。モヤシは水気を抜かれて、噛むと最初に音がする。キャベツの芯だけが甘い。その甘さが、次の麺の塩気を強く感じさせた。


三口目で汗が出た。額から入って、こめかみを通って、顎で溜まる。手拭いはない。腕で拭って、また箸を入れた。


豚に箸を入れると、繊維がほどけた。断面が層になっている。脂の層と赤身の層が交互に重なり、箸で持ち上げると自分の重さで垂れ下がった。口に入れると、温度が違った。麺より熱い。噛むと最初に脂が溶けて、その後から肉の味が広がる。


右隣で、キャップの女が短く息を吐いた。


「……神豚か」


独り言だった。意味を聞くつもりもなかったが、かみぶた、というその言葉は耳に残った。


そこから先は無心だ。美味い、と思う余裕はなくなった。ただ丼の中身を減らすことだけを考えて箸を動かした。汗が顎から落ちる。息が上がる。剣道の稽古と、体の使い方だけが少し似ていた。


食べはじめてからは、五人とも一言も発しなかった。同じ釜で茹でられた同じ麺を、同じ豚を、黙って口へ運んでいる。一種の静寂が店を包んでいた。

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