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第一杯目 着丼!デブラメンジャー③

防具袋の紐を締めたところで、ポケットの中が震えた。


『【魁星】限定感謝クーポン/本日限り・小ラーメン一杯無料/整理番号 05』


「あ」


鷹志が横から画面を覗き込んでくる。汗で湿った前髪が、ジロウの頬に触れそうな距離まで来ていた。


「魁星? 駅の裏の、ホラ、ニンニクマシマシ! モヤシドサッ! って感じのラーメン屋だろ」


「そう。……お前んとこ、来てない?」


「え?」


「同じの。無料券」


鷹志が自分のスマホを取り出して、しばらく画面を触っている。指の動きが途中で止まり、それから軽く首を振った。


「来てないな。てか、俺、あの店のアプリ入れてないし」


ジロウは自分の画面をもう一度見た。一度だけ行ったことがある。去年の夏だ。券売機の前で固まって、後ろの人に舌打ちされて、席に着いてからも何をしていいのか分からなかった。出てきた丼を食べ終わるのに十五分かかった。周りは五分かそこらで立っていったので、最後は店主に見られている気がして、味どころではなかった。


あのとき、何らかでアプリを入れさせられたのだろう。券売機の横の貼り紙に、二次元コードがあった覚えがある。それきり半年、何の通知も来ていなかった。


「……行かない?」


「無料券、一枚だろ?」


「うん。だから、お前の分は半分出すよ」


「なんで?」


「いや、俺一人だとちょっと」


鷹志が変な顔をする。


「お前、一回行ってんじゃなかったっけ」


「行った。行ったけど、怖いんだよ、あの店。誰も喋らないし、店の人はずっとこっち見てるし」


「いやいや、見てねえだろ」


「絶対見てるんだって。何チンタラ食ってんだ~って感じで」


ジロウは真顔だった。鷹志は数秒こちらを見て、それから吹き出す。肩を揺らして、しばらく笑っている。


「わかったよ、付き合う」


「ありがとう」


「半額はアツいわ。ありがとな」


そう言いながら鷹志はもう防具袋を担ぎ上げていた。


「……けどよ、行くなら勝負するつもりで行かねえとな。だって、あそこの豚、岩じゃん」


「鷹志も行ったことあんの」


「先輩に一回連れてかれた。一口目は旨いんだよ。で、食い終わったと思ったら、ヤサイの下からもう一枚出てくんの。あれは絶望する」


「無理して食うことないだろ」


「いや、さすがに。残すわけにもいかねえから、無理やり食ったんだよ。マジで苦しかった。なんか、そのあともしばらく具合悪かった気がするもん」


「それは関係ないだろ」


鷹志は笑って、先に歩き出した。


---


魁星の一本手前の交差点で、鷹志が自転車を止めた。角にコンビニがある。


「やべ。金おろしてくる」


鷹志は店の前に自転車を停めて、中へ入っていった。ジロウも隣に自転車を停めた。防具袋を肩から下ろして、電柱の脇に立てる。汗の残った背中に、外気が入ってきた。息も白い。


コンビニの二軒先にドラッグストアがあって、入口の前で、ベビーカーを止めた母親が中の赤ん坊をあやしていた。そのそばで、女の子がゴムのボールを弾ませている。五つくらいだろうか。毛糸の帽子の耳当てが、弾むたびに揺れた。ボールが、その手を外れた。


ボールは歩道の段差で一度跳ねて、車道へ転がり出た。女の子がそれを追う。母親が顔を上げたときには、もう縁石を越えていた。角の向こうから、エンジンの音が近づいてくる。


ジロウは防具袋を蹴倒して走った。考えるより先に、足が出ていた。車道の真ん中で女の子の胴をすくい上げ、そのまま歩道の側へ転がりこむ。背中から落ちて、手のひらでアスファルトを擦った。ブレーキの音が、頭のすぐ上で長く鳴った。


車は、女の子がいた場所を一メートルほど過ぎて止まっていた。運転席の窓が下がる。


「危ねえだろ! どこ見て──」


男の声は、そこで途切れた。ジロウの腕の中で、女の子が火がついたように泣き出していた。


「大丈夫、大丈夫」


ジロウは女の子を抱えたまま言った。泣き声が大きくなる。大丈夫、と言うほど、女の子は身をよじってジロウの腕から逃げようとする。ボールは、側溝の蓋の隙間に挟まって止まっていた。ベビーカーの中で、赤ん坊まで泣き出している。どうすればいいのか、ジロウには分からなかった。


「下ろしてあげて。たぶん、怖いから」


声は、すぐ後ろからした。振り返ると、女が立っていた。道の向こうから渡ってきたらしい。大学生くらいだろうか。黒髪を高い位置でまとめて、片側に流している。その束の中に、緑のメッシュが二筋混ざっていた。冬の夕方の、色の抜けた通りで、そこだけ色がついて見えた。


ジロウは自分の腕を見た。女の子の胴を、両腕で抱えこんでいた。車から守ったときから、まだ一度も離していない。泣き声が上がるたびに、かえって腕に力を入れていた。


慌てて、女の子を歩道に立たせる。手を離すと、女の子は一歩、ジロウから下がった。


女は側溝の前で屈むと、蓋の隙間に挟まったボールを、つま先で器用に掻き出した。手のひらで一度弾ませて、女の子の前に軽く放る。女の子は思わず両手を出して、それを受け止めた。泣き声が、しゃくり上げに変わる。


「ナイスキャッチ」


ベビーカーの車輪の音が近づいてきた。母親が赤ん坊を乗せて駆けてくる。女の子がボールを抱えて、母親の脚にしがみついた。母親はその頭を一度強く抱き寄せてから、車のほうへ向き直り、何度も頭を下げた。


「すみません、本当にすみません。目を離してしまって」


運転席の男は、母親と女の子を順に見た。


「……気をつけてくださいよ」


窓が閉まり、車が走り去った。女の子は母親の脚のうしろから、警戒した目で、まだジロウを見ていた。泣き止んではいる。女がその子に笑いかけた。


「ねえ。このお兄ちゃん、めちゃくちゃ速かったよね」


女の子が、ジロウを見上げた。それから、小さく頷いた。


母親がジロウにも頭を下げた。ジロウは何と返せばいいのか分からず、同じように頭を下げた。親子が角のほうへ戻っていく。女の子は母親と手をつないで歩きながら振り返り、ボールを持った手でジロウに手を振った。


ジロウは、その手が角の向こうへ消えるまで目で追った。手のひらがひりひりする。


「はい」


目の前に、缶が差し出された。ココアだった。女が、自販機で二本買ってきていた。


「かっこよかったぞ、少年」


「……どうも」


受け取ろうとした手を、女がつかんだ。手のひらを上に向けさせる。皮がすりむけて、血が滲んでいた。


「ほら。気づいてないでしょ、これ」


言われて、痛いのはここだったのかと思った。女はコートのポケットから絆創膏を出して、手際よく二枚貼った。爪が、髪のメッシュと同じ緑に塗ってあった。ジロウは缶を開けて、一口飲んだ。甘かった。


「剣道?」


歩道に転がった防具袋を、女が顎で示した。


「はい」


「へー、強いの?」


「いや、大したことないですよ。同じ学年のやつに、全然勝てないです」


「その子、強いんだ」


「強いです。足が速くて、こっちが打とうとしたときには、もう間合いに入ってる。面を狙ったら、先に小手を取られてて」


鷹志のことを話すときは、言葉がすらすら出た。缶を持っていないほうの手で、竹刀の振りを真似している。女は缶を両手で包んで、それを面白そうに見ていた。


「楽しそうに話すね。負けてる相手のこと」


「……楽しそうでしたか」


「うん。すごく」


ジロウには、よく分からなかった。強いやつを、強いと言っただけだ。


女は自分の缶を飲み干して、道の向こうへ目をやった。


「私、あそこからじゃ間に合わなかった。……速かったね、ほんとに」


女はジロウの手から空き缶を取って、自分のと一緒に自販機の横のゴミ箱へ放りこんだ。


「じゃあね」


女は手を振って、交差点を渡っていった。


鷹志が出てきたのは、何分か経ってからだった。


「悪い、ATM並んでた」


言いながら、ジロウの泥のついた制服と、絆創膏の貼られた手を見比べる。


「何してたの」


「……綺麗なお姉さんに、ココアもらった」


「は?」


鷹志はあたりを見回した。それから、ジロウの顔を見た。


「お前、何してたの」


ジロウは防具袋を拾い上げて、肩に掛け直した。二人で、また自転車を出した。

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