第一杯目 着丼!デブラメンジャー②
三年後──
「切り返し、あと二本!」
主将の声が飛んだ。
道場の床は、朝から一度も温まっていない。二月の板は、素足の裏から熱を吸い上げていく。窓は内側が白く曇り、その上端の開いた隙間から入る風だけが、はっきりと冷たい。日は傾いていた。
ジロウは元立ちに向かって正面を打ち、体当たりで押し込んだ。前へ出ながら左右面を四本、退がりながら五本。正面で抜けて、間合いを取り直して、二本目に入る。この頃には竹刀を振っているという感覚がなくなり、腕が勝手に往復しているだけになる。
「よし、休憩三分。そのあと掛かり稽古」
面を外すと、頭から湯気が立った。汗が顎の先から落ちる。三分あれば、この汗は背中で冷たくなる。そうなる前に飲めと言われている白湯を、ジロウはやかんから紙コップに注いだ。
道場の隅で座り込んだところに、生田鷹志が並んで腰を下ろした。同じ二年で、入部した日も同じだ。それから二年近く、ライバルとして切磋琢磨してきた。
「お前、今日、左足残ってんぞ」
「そう?」
「打ったあと、引きつけが一拍遅い。だから二本目が出ない」
「まあ、自覚あるわ」
「あるならやれよ」
「いや、やってんだよ、これでも」
鷹志は自分の面の内側を手拭いで拭いていた。汗を吸って重くなった手拭いを絞ると、床に小さな染みができる。板は冷え切っていて、染みはいつまでも乾かなかった。
三年前より昔のことを、ジロウは何も覚えていない。医者は珍しいことではないと説明し、父は無理に思い出さなくていいと言った。だからジロウも探すのをやめた。困ることは、思っていたより少なかった。困りかけるたびに、誰かが先に手を差し伸べてくれた。
代わりに、この三年で手に入れたものがいくつかある。寡黙な父と二人の食卓。剣道部。入部した日、竹刀の握りより先に、礼の仕方を教わった。そして目の前で他人の左足の位置にいちいち口を出してくる、このうざったい友人。
「掛かり稽古、始めます!」
掛かり稽古は、いつまで経っても慣れない。元立ちの隙を自分で見つけて、ひたすら打ちかかり続ける。考える余裕を与えられない。息が続かなくなっても手を止めることは許されない。
ジロウの前に立ったのは、主将だった。同じ二年だが、去年の夏に三年が抜けてから、この道場でいちばんよく通る声を出している。
「三田、来い」
面。小手。面。胴。
打つ。打った瞬間には次の隙が空いている。そこへ続けて入らなければ、隙は閉じる。間に合わせるには、左足を引きつけなければならない。引きつけようとすると、息が続かない。体当たりで押し返され、後ろへ流れ、それでも足を止めずに前へ出る。
三十秒でもう肺が痛くなった。冷えた空気を吸っているはずなのに、面の中には自分の呼気が溜まって、吸っているのか吐いているのか分からなくなる。汗が目に入っても拭えない。一分でほとんど何も見えなくなる。
「左足! 残ってる!」
分かっているが、動かないものは動かない。
体は辛いが、ジロウはこの時間が嫌いではなかった。考えなくていいからだ。体を動かせば動かした分だけ結果が返ってくる。
「よし、上がれ。……三田、ちょっと」
膝に手をついて呼吸を整えていると、主将が面越しに言った。
「来週の朝稽古、六時からと七時から、どっちがいい」
「どっちでも」
「来年から三年のお前がはっきりしないと示しがつかないぞ」
主将はそこで少し待った。六時、と言わせたいらしい。ジロウは主将の肩越しに、壁の時計を見た。
「じゃあ六時な」
そう言って、主将は次の列へ向かっていった。声はまだ大きい。部員全員を受けたあとだというのに、疲れていないふりをしている分だけ、余分に大きい。壁際の一年が二人、顔を見合わせて、「六時って」「マジか」と小声で言い合った。
ジロウは面の紐を結び直した。六時でも七時でも、起きて道場に来ることに変わりはない。どちらでも困らないのだから、答えようがなかった。ただ、こちらも真面目にやっている。やる気があるかどうかを、六時に来るかどうかで測られるのは迷惑だった。
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最後は地稽古だった。
地稽古に審判はいない。打った打たれたは互いの感覚で決めるので、あとでよく食い違う。
ジロウの相手は鷹志だった。
礼をして、「お願いします」と言う。蹲踞から立ち上がって、剣先を合わせる。入部してから何百回とやった構えの中に入ると、周りの音が薄くなる。
先に動いたのは鷹志だった。剣先で攻めながら左足を引きつけ、間合いを半歩だけ詰めてくる。詰められた分だけジロウが下がると、下がりきる前に面が落ちてきた。竹刀が面金を鳴らし、そのまま鷹志が横を抜けていく。
一本目は取られた。
それから続けて二本。出ばなの小手が一つ、下がったところへの胴が一つ。入り口はいつも同じ、半歩の攻めだった。分かっていて、それでも下がってしまう。
四本目、ジロウは下がらなかった。鷹志が攻めてきた瞬間に前へ出る。小手に来る。手元を上げてかわし、そのまま面へ返そうとして──
「浅い」
自分で言っていた。竹刀は当たった。振りかぶりが足りず、体が伸びきる前に手だけが先に行った。こんなものは打突ではない。
「今の、当てにいっただけだろ」
面の内側で、鷹志が笑ったのが、息の抜け方で分かった。
「……分かってる」
「手首が逃げてた。俺には分かる」
言い返す前に、鷹志が踏み込んできた。踏み込みの音が一つ。ジロウは受けに回る。竹刀と竹刀が噛み合い、鈍い音が天井に跳ねた。鍔迫り合いになる。押し込まれる。面の中で息が籠もり、面金の格子越しに、鷹志の目だけが見えた。
踏ん張る。押し返す。相手の体重が前に乗った。ここで引けば、崩れる。
体を捌いた。押していた勢いのまま、鷹志の体が前へ泳ぐ。泳いだ分だけ手元が浮き、その一瞬、面が空いた。
ジロウは踏み込む。腰から入って、振りかぶって、上から真っ直ぐ。「メン!」の声と一緒に、物打ちが正面をはっきりと捉えた。左足が遅れなかった。打ち抜けて、振り返って、剣先を相手に付ける。残心。今度は、体が全部ついてきていた。
「……くそ、今の左足きれいだったな」
面を外した鷹志が汗まみれの髪をぐしゃぐしゃに掻いた。頭ひとつ分、ジロウより高いところから見下ろしてくる。
「認めるよ。認めるけど、今日のトータルは俺の勝ちだからな。三対一」
「四本目、当たってはいただろ」
「当てにいっただけだって言ったろ。お前も分かってるって言った」
「……言ったな」
言い合いながら、二人で道場の隅へ引っ込んだ。面と小手を外すと、汗を吸った道着がそのまま冷たくなって背中に貼りついた。胴を外すと、薄い体が出てくる。去年の春から、一センチも変わっていない。中学の頃の道着がまだ着られる、と言ったら鷹志に笑われた。
「うわ、くっさ。外した瞬間これだよ」
鷹志が外したばかりの小手を、腕だけ伸ばした格好で顔から離した。
「乾かせよ。入れっぱなしだろ、それ」
通りかかった主将が言う。自分の小手は、床に掌を上にして並べてある。
「そりゃ干してるわ。干してるのに、こうなるんだって」
一年が二人、離れたところで笑っていた。笑いながら、二人とも自分の面を体から離して持っている。
ジロウは小手の内側へ指を入れて、革の湿り具合を確かめた。匂いは分かる。汗と、藍と、革が混ざって、鼻の奥に残る。
「ジロウは平気なんだよな、これ」
「平気。……というか、好きかもしれない」
「頭おかしいよ」
鷹志が小手を持つ手を下ろした。
「稽古した分の匂いだろ。汚いもんじゃないだろ、これ」
「いや、なんかお前気持ち悪いな」
「女子のなら分かるかもしれないっすね」
一年の片割れが、離れたところから口を挟んだ。
「黙れよ」
ジロウが言うと、一年は首をすくめて面を抱え直した。鷹志は小手を床に置いて、指先で二つの向きを揃えた。文句の割に、置き方は丁寧だった。
「三田くん、お疲れ」
道場の入口から声がして、ジロウの手からタオルが落ちた。
「あっ、いや、うん、お疲れ」
「……なんで拾わないの」
「拾う。拾いますよ」
慌ててタオルを拾い上げる。同じクラスの阿倍莉奈が竹刀袋を抱えたまま、おかしそうにこちらを見ていた。女子の稽古はもう上がっているらしい。
「最後の地稽古、見てたよ。面、きれいだった」
「あー……うん、まあ」
「まあ、じゃないでしょ。褒めてるの」
莉奈が笑って、そのまま更衣室の方へ歩いていく。その後ろ姿が見えなくなってから、ジロウは長い息を吐いた。
「お前さあ」
鷹志が心底呆れた顔をしていた。
「なに」
「朝練のあと、駐輪場で一年の揉め事に割って入ってた奴が、なんで阿倍相手だとそれなんだよ。もうちょっとまともな会話しろよ」
「あれとこれは別だろ。あれはほっとくと殴り合いになってたし」
「そっちの方が難しいだろ。普通に考えて」
そういうものだろうか、とジロウは思う。揉め事の間に体を入れるのは、難しくない。重い荷物を持っている奴の半分を持つのも、難しくない。絡まれている一年の前に立つのも、勇気が必要なことだとは思っていない。体が勝手に動く。動いたら、だいたい何とかなる。
「三田は学校のヒーローだからな」と、クラスの誰かが言ったことがある。茶化す調子だった。ジロウはそれを否定しなかった。
困っている人がいたら助ける。それが自分だ。




