第九杯目 ダイマシマシオー、始動③
家に着くと、十時を過ぎていた。
父は台所のテーブルで、テレビを消したところだった。画面が黒くなる直前、北口の映像が映っていたのが見えた。テーブルの上には、ラップのかかった皿が二つ置いてある。煮物と、焼き魚。
「食ったか」
「うん」
「そうか」
父は湯呑みを流しに置いた。
ジロウは自分の部屋に入って、竹刀袋を壁に立てかけた。防具は道場に置いてある。着替えるとき、胸から腰へ、赤く腫れた筋が斜めに走っているのが見えた。袋から竹刀を一本抜いて、畳に座った。
先の方に、ささくれが出ている。やすりを取り出して、削り始めた。竹の粉が畳に落ちる。
竹刀が傷むのは、いつも先の方だった。まっすぐ打てていれば、当たるのは先だけだからだ。横の竹が割れていたら、竹刀が斜めに入って、横で叩いている。
ささくれは、まだ半分残っている。やすりを置いて、竹刀を畳に横たえた。
廊下を父が通っていく足音がした。部屋の前で少し遅くなって、そのまま行った。
ジロウは電気を消した。
翌日の稽古は、切り返しから駄目だった。
正面を打って、体当たりで押し込んで、そこから左右面を九本。息を継がずに打ち続ける、いちばん最初に習う稽古だ。
三本目でもう左手が体の中心から外れていた。右手だけで振っているから、竹刀が斜めに入る。当てにいく打ち方だ。
「三田、左手!」
主将が怒鳴った。直そうとして、今度は振りかぶりが浅くなった。
掛かり稽古に入ると、もっとひどくなった。三十秒ももたずに息が上がって、掛け声が続かない。
元立ちの面に、竹刀が届かない。たまに当たっても、その瞬間に手の内が緩んでいるから、竹刀が面の上で跳ね返されるだけだった。
「やめ」
顧問が竹刀を上げた。道場の音が止まる。
「三田。面を外せ」
ジロウは面紐を解いた。
「今、どこを打った」
「……面です」
「元立ちは小手を空けてたぞ。打つところを、先に決めてるな」
ジロウは頷いた。
「迷いがあるな。何があったかは聞かない。今日は上がれ」
ジロウは礼をして、道場の端へ下がった。防具を外す手が遅い。
竹刀を袋に入れる前に、先を見た。削りかけのささくれは、そのままだった。その少し下、横の竹に新しい裂けが走っている。昨日やすりをかけたときには、なかった。
鷹志が列から抜けてくるのが見えた。ジロウは、それより先に道場を出た。
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駅前の通りに出たとき、雲が低くなっていた。制服の肩に竹刀袋が食い込む。
「三田くん?」
後ろに、鞄を提げた千代太がいた。ネクタイが曲がっている。
「早いですね。部活は」
「……終わりました」
千代太がスマホで時刻を見た。
「終わってないですよね、その時間」
千代太は何も聞かずに横に並んで、歩き出した。
ジロウの方から口を開いた。
「聞かれたんです」
「何を」
「その剣は誰のためのものだ、って。ムサーシに。守るためだって答えたら、誰を守るのか、なぜお前がやるのかって聞かれて。……何も出てこなくて。そこを斬られました」
千代太は横断歩道の前で立ち止まった。信号は赤だった。
「俺、今日、上司に怒られたんですよ」
「え」
「外回りの途中で、路地でおばあさんが転んでて。頭を打ってたので、救急車呼んで、そのまま病院まで付き添ったんです」
信号が青に変わって、二人は渡り始めた。
「アポの時間には電話入れてずらしてもらったんですけど、会社への一報が後回しになって。戻ったら怒られました。なんで先にこっちに連絡しないんだって」
「それは……」
「いや、俺が悪いです。会社にも一本入れておくべきだったんです。……でも、そのあとに言われたんです。なんでお前が付き添うんだ、って。答えられませんでした」
「なんでだったんですか」
「それが、分からないんです。うちのお客さんじゃないし、他にも人は歩いてたし。倒れてる人がいて、気づいたら鞄を置いてた」
千代太が短く笑った。
「北口でも、お年寄りを抱えて走ってたじゃないですか」
「そうなんです。昨日も今日も、体が先に出た。理由は後から聞かれても出てこない。……三田くんなんか、最初からそうじゃないですか」
千代太が、打たれた脇腹に手をやった。
「昨日、俺がここを打たれたとき、真っ先にこっちを見てましたよね」
風が来て、千代太のネクタイが跳ねた。
「理由なんて要らないんじゃないですか。なんで戦うのかって聞かれて、ちゃんと答えられる人の方が、俺は怖いです」
気づくと、指が竹刀を握るときの形に半分曲がっていた。
三年前より前のことは何も覚えていない。この街に来てからは、目の前で誰かが転べば、考える前に手を貸していた。腕輪をもらった日、はぐれて泣いていた女の子を見つけたときもそうだった。
それが昨日からは、誰かが困っていてもなぜ自分が、と先に考えてしまう。
「千代太さん」
「はい」
ジロウは歩き出した。
「そういえば、千代太さんが取り込まれてたとき、魁星で揉めたんです。助けに行くかどうかで」
千代太の足が止まった。
「忍さんは放っとけって言うし、ひばりさんは代わりを探せばいいって言うし。そしたら、乃絵さんが怒ったんです」
千代太は、通りの向こうへ目を移していた。
「巻き込まれただけなのに、いちばん真面目にやってたのは千代太さんだって。ひばりさんにまで食ってかかって。それで、みんなで行くことになったんです。ちゃんと話して、お礼、言った方がいいですよ」
「……知らなかった」
「乃絵さんは自分からは言わないと思います」
「……そうか。言わなきゃな」
千代太は前を向いた。ネクタイを直して、鞄を持ち替える。
「ありがとうございます、三田くん。……いや、三田」
呼び方が変わった。
「俺、年上だし。ずっとそうしたかったんだよ」
千代太が鼻の頭を掻く。指先が寒さで赤い。
「駄目でした?」
「いえ」
「よかった」
「じゃあ、また明日」
「はい、ありがとうございました」
角で、千代太は駅の方へ折れた。背中が人混みに紛れていく。ジロウは竹刀袋を背負い直した。
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翌朝の教室は、北口の話で持ちきりだった。窓が全部開けてあって、外の風がまだ冷たい。黒板の隅に、日直が書いた数字が残っている。終業式まであと二日だった。
「北口のとこ、まだ通行止めだって」
「また怪人? 何人やられたの?」
「七人。誰も死んでないけど、二人はまだ入院してるってさ」
黒板の前で誰かがスマホを掲げている。ジロウは自分の席で鞄を開けて、そのまま手を止めていた。
「三田くん、おはよ」
莉奈が登校してきて、ジロウの机の横で足を止めた。
「北口、部活の帰りに通る道だよね。気をつけなよ」
「……うん」
莉奈が自分の席に戻っていった。
一時間目の前に、廊下でプリントの束を抱えた学級委員とすれ違った。束の上の方が崩れかけている。ジロウは通り過ぎてから戻って、上の半分を引き取った。
「あ、いい、いいよ」
「二階まででしょ」
「うん……ありがと」
昼休みには、階段を下りてきた一年生が、段を踏み外した。手すりへ伸ばした手が空を切る。ジロウはもう、その腕を掴んでいた。
「大丈夫?」
「……す、すみません」
一年は何度も頭を下げて、下りていった。
戻ってきたジロウを、莉奈が自分の席から見ていた。
「三田くん、昨日なんか元気なかったでしょ」
ジロウが箸を止める。
「……そう見えた?」
「階段で困ってる子いたのに、素通りしてたもん。今日はさっき、すぐ掴まえてたけど」
「……よく見てるね」
「三田くんが分かりやすいだけ」
莉奈が笑って、弁当箱の蓋を閉じた。ジロウが返事を探しているうちに、友達の方へ行ってしまう。
放課後の道場で、ジロウは棚から自分の防具袋を下ろした。床がまだ冷たくて、素足の裏が縮む。
鷹志が隣に来て、垂の紐を結び始めた。
「今日、試合形式やるってさ。先生いないけど、審判なしで回すって」
「そう」
「昨日のお前、腑抜けてたけど。今日はましだな」
鷹志が面をつける。
「何もやってないけどな」
「歩き方で分かる。昨日は道場入ってくるとき、下向いてたぞ。二年も見てりゃな」
「……うるさいな」
一本勝負、三分。主将がそう言って、タイマーを手に壁際へ下がった。審判はいない。打たれたと思った側が、自分で構えを解く約束だ。順番待ちの部員が壁際に正座して、私語が止まった。
昨日はこの場所で、面を外せと言われた。
礼をして、「お願いします」と言う。蹲踞から立ち上がって、剣先を合わせる。面の中の呼吸が、思っていたより落ち着いていた。
鷹志は最初から前に出てきた。剣先で攻めながら左足を引きつけて、間合いを詰めてくる。こちらは下がりたくなる。
だが、下がらない。
剣先が上がった。鷹志の右手が動く。ジロウの左足が床を押していた。
打とうと思っていない。面が空いた、とも思っていない。ただ、そこに体が行った。「メン!」と声が出て、竹刀が鷹志の面を捉えた瞬間、手の内が締まる。抜けて、振り返る。
鷹志が構えを解いていた。
「……入ったわ」
礼をして下がり、面を外した。竹刀の先を親指でなぞる。裂けた竹は、ゆうべ組み替えてある。横の竹には、ささくれ一つ触れなかった。
面と手拭いを外した鷹志の頭から、湯気が立っていた。
「今の、避けようがねえよ」
「ごめん」
「謝んな。……戻ったな、お前の剣」
道場の隅で、莉奈が両手で小さく拍手していた。ジロウが見ると、慌てて手を下ろす。
壁際へ戻ると、防具袋の中でスマホの画面が光っていた。乃絵からだった。
『店長のレーダー鳴った! 中央通り、たぶんムサーシ』
ジロウは竹刀を置いて、主将の前へ走った。
「悪い、急用。今日はこれで抜ける」
主将が口を開く前に頭を下げ、胴と垂を外しながら道場を出る。靴を突っかけたときには、もう走り出していた。




