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第九杯目 ダイマシマシオー、始動①

竹刀の音が道場を埋めている。


打ち込み稽古の列が二つ。ジロウは元立ちの前へ出て面を打ち、体当たりで押し込んで、引き小手で退がって列の後ろへ戻る。汗が面の内側を伝って顎に溜まった。前に並ぶ者が三人、二人と減っていく。息を整える間もなくまた自分の番が来る。


「よし、地稽古!」


主将の声で列が崩れた。部員がそれぞれ相手を探して散り、道場の中が一斉に騒がしくなる。


「三田、来い」


主将に呼ばれて前へ出ると、相手は鷹志だった。蹲踞から立ち上がる。剣先と剣先が触れて、そこで止まる。


鷹志は剣先で攻めながら左足を引きつけ、こちらが下がったところへ面を落としてくる。この攻めに、何度も打たれてきた。今日は下がらない。


剣先が下から押し上げられた。来る、と思うより先に体が前へ出ている。竹刀が鷹志の小手を捉えた。手の内が締まって、乾いた音が鳴る。


鷹志が二歩下がって剣先を戻した。そこで主将の「止め!」がかかる。二人とも蹲踞して礼をし、面紐を解いた。


「くそ、出小手かよ」


鷹志が面を外して、右の手首を振った。


道場の入口に、竹刀袋を抱えた莉奈が立っていた。髪をまとめていたゴムを外しながら、こちらを見ている。


「三田くん、今の速かったね」


「あ、うん」


莉奈が笑って行ってしまう。鷹志が肘でジロウの胴を小突いた。


---


七時を少し回って、魁星に着いた。


寸胴から上がる湯気で、店の天井近くが白い。ジロウは券売機の前を素通りして、カウンターの端に座った。二つ隣に忍がいて、その向こうに乃絵とひばりが並んでいる。


引き戸が開いて、千代太が入ってくる。いちばん端の席に座って、鞄を足元に置いた。ネクタイの結び目が指二本分ゆるんでいる。


「遅い、前ちゃん」


「すみません……」


「謝んなくていいって。何、また残業?」


「いえ。今日は普通に上がれました」


千代太が水を一口飲んだ。


「日曜、散々でした」


「日曜?」


「部長のゴルフに連れていかれまして」


「前ちゃん、ゴルフやんの?」


「やらされるんです。三週間前に言われて、打ちっぱなしに三回通って」


「日曜って、仕事の日じゃないの?」


「有給を取らされました。部長と取引先の社長さんが飲み仲間で、その二人のゴルフなんです。仕事にはならないんで」


千代太が指を折る。


「打ちっぱなしが三回で二千四百円。当日のプレー代とお昼で二万一千円。全部自腹です」


「有給使って、金払って上司とゴルフすんの、意味わかんね」


「……それが社会人なんですよ」


ジロウは「いただきます」と手を合わせて、割り箸を割った。


「スコアは、どうだったんですか」


「スコアどころじゃないです。打つ順番があるんですよ。偉い人から打つんです。あと、乗るカートの席も決まってて」


千代太が肩を落とした。乃絵がその首元を指さす。


「前橋さん、首だけ焼けてますよ」


「え、本当ですか?」


「襟のところで線になってます」


千代太が慌てて自分の首を触った。忍が声を上げて笑う。


ひばりが、丼から顔も上げずに言った。


「雇われは大変だな」


「目黒さんは、そういうのないんですか」


「自営はいい。この手の付き合いをしなくて済む。私はもう自由の身だ。せいぜい頑張れ」


「……身も蓋もないです」


大豚が千代太の前に丼を置いた。


「食え」


「……あの、毎回いただいてますけど、いいんですか」


「いい」


「でも、俺だけじゃなくて五人分ですし」


「お前らが力を切らして負けたら、この店も一緒に潰れる。安いもんだ」


千代太が丼を見下ろした。麺の上に積まれた野菜が、まだ崩れていない。


「太るじゃないですか」


「アブラヌキでも駄目なら自己責任だ。運動を怠るな」


忍が、持ち上げた麺を丼に戻した。


「あのさ。毎回これ食うのは、正直ちょっと重いんだけど」


大豚が振り向いた。麺上げの手だけは止まっていない。


「ならば豚をそのまま齧るか」


忍が黙って麺を持ち上げた。乃絵が肩を震わせて後ろを向く。


厨房の奥の棚の陰で、電子音が鳴った。大豚が寸胴から顔を上げる。


「駅の北だ。何かが力を振るっている。反応が強いな」


千代太が真っ先に引き戸へ向かった。


駅の北口を出て三本目の通りは、飲食店とドラッグストアが並ぶ、いつも人が多い道だった。


その道に人が倒れている。歩道に二人、車道の縁に一人。近くにいた男が、腕を押さえてうずくまっている。指の隙間から血が出ていた。悲鳴と、鳴りっぱなしの車のクラクションが重なっている。


青い体が、その間を跳ね回っていた。アオガッパだ。十数体いる。ドラッグストアのガラスを叩き割り、逃げる人の背中に飛びかかっている。相変わらず統率はないが、数だけはいるから道が塞がる。


その真ん中に、怪人が一体立っていた。背が高い。肩から胸にかけて鉄の板で覆われていて、板の合わせ目が赤黒く焼けている。背中に炉のようなものを負っていた。丸い胴に穴が開いていて、その奥で火が燃えている。炉のわきで革の袋が伸び縮みするたび、火の色が変わった。炉の反対のわきには、丸い槽が下がっている。


怪人が右手を開いた。何もない空間から刀が現れて、手の中に納まる。


「我が名はムサーシ」


刃を目の高さに立て、ムサーシは通りを見回した。


「斬るに足る者はおるか」


五人はドラッグストアの脇の路地へ飛び込んだ。逃げる人の目は、みな表通りの先へ向いている。五人が腕輪に食券を差し込む。


「マシマシチェンジ!」


光が引いたときには、ブタレッドの手にワシワシメーンがあった。路地から出る前に、後ろを振り返る。逃げ遅れはいない。レッドは表通りへ飛び出した。


「雑魚を散らせ! 人が逃げられない!」


カラメブラックの声で、四人がアオガッパの群れへ突っ込んだ。


ニンニクイエローが三体まとめて薙ぎ倒す。ヤサイグリーンの矢が、女の子に飛びかかろうとした一体を横から射抜いた。アブラホワイトがハンマーを腕輪へ戻して、腰の抜けた老人を抱えて路地へ運び、戻ってきた勢いでもう一体を殴り飛ばす。


一体ずつなら、今の五人の相手ではない。ただ、アオガッパは散らした端から起き上がってくる。


その群れを割って、ムサーシが来た。倒れたアオガッパを、踏みつけて越えてくる。


ブラックが踏み込んで、ワシワシメーンを下から跳ね上げた。ムサーシが刀で受け、そのまま押し返す。ブラックの体が二歩流れた。その隙にイエローが横から斬りかかる。刃が届く前に、ムサーシの肘がイエローの面頬を打った。イエローが転がる。


「なんだこいつ、速──」


グリーンが弓を腕輪へ戻して走った。腕を押さえてうずくまっていた男の脇に両手を入れ、路地の入口まで引きずっていく。ホワイトがムサーシとのあいだに入って、二人の盾になった。


レッドはもう間合いに入っていた。上段から落とす。刀が上がって、ワシワシメーンの刃を滑らせる。手首を返して二の太刀。今度は刀の根元で止められた。


「ほう。貴様の剣には型があるな」


受けた根元から、刀が折れた。刃が路面に落ちる。ムサーシは柄を投げ捨てて、左手を開いた。また刀が現れる。


「おい、今の見た? 折れたのに、また出た。何本目だよ」


イエローが起き上がった。


「囲め!」


ブラックが剣を構え直した。


レッドが構え直すより先に、四人が同時にかかった。イエローが背後から詰め、グリーンが離れたところから矢を放つ。ホワイトが右から、ブラックが正面から踏み込んだ。


ムサーシがその場で一回転した。まず矢が叩き落とされる。ホワイトがいちばん先に届いた。アブラハンマーを振り上げた腕の下をくぐって、刃が胴を打つ。ホワイトの体が半回転して倒れた。


返す刃が、止まらずにブラックへ向かう。ブラックが剣を立てて受けにいくと、刃は手前で引かれて、代わりに柄が脇腹に入った。ブラックが膝から落ちる。


最後にイエローが背中から掴みかかった。伸ばした腕を、逆に掴まれる。そのまま投げられて、歩道の街灯に叩きつけられた。街灯が根元から折れる。


三人が路面に転がっている。ムサーシはそこで刀を下ろした。


「四人はつまらぬ」


「んだと! ふざけんな」


イエローは立ち上がろうとして、また路面に転がった。刀の切っ先が、まっすぐレッドに向く。


「貴様だけは、斬りがいがありそうだ」


レッドは踏み込んで、面を打った。刀が跳ね上がって受ける。手首を返して小手へ回ると、刀はもうそこへ下りている。胴へ切り返しても、剣先が先に待っていた。


打つ場所を決めた瞬間に、そこへ刀が来る。ムサーシの切っ先が小さく揺れるたびに、面か小手か、打つ前に選ばされていた。


間を外して、もう一度打った。刃は今度も先に来ていた。肩を斬られて、体が半歩流れた。


「型はある」


ムサーシが刀を返した。


「だが、芯がない」


レッドは息を詰めた。


「貴様、その剣を誰がために振るう」


「……守るためだ!」


「誰を守る」


刀が上がる。


「なぜ、貴様が」


答えが出ない。守る相手の顔が、一つも浮かばない。その間に、刀が胸から腰へ斜めに抜けた。


膝が路面についた。手から抜けかけたワシワシメーンを、指先でかろうじて止める。


ムサーシは刀を提げて、一歩退いた。


「答えを携えて出直すがよい」


背中の炉の火が、一段暗くなった。


「それまで、我はこの街を斬る」


ムサーシは歩いて、通りの角を曲がって消えた。


「三田くん、大丈夫!?」


グリーンが駆け寄ってくる。レッドはワシワシメーンを杖にして、体を起こした。


「大丈夫です」


そう言ってから、胸から腰へ走った傷が遅れて痛み出した。

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