第六杯目 アブラはヌキで②
魁星に着いたのは八時前だった。いつもより遅い。表の明かりはもう落としてあって、券売機の明かりだけが点いている。他の四人はもう来ていた。
「お疲れ様です」
「あ、来た」
忍がカウンターに突っ伏したまま手を上げる。千代太は鞄を置いて、上着を畳んで、その上に乗せる。それからカウンターに残っていた丼を、上の台へ上げておく。布巾でカウンターを拭く。水差しから、五人分のコップに水を注いでおいた。
「じゃ、始めるぞ」
ひばりが言った。四人は、千代太が拭いたばかりのカウンターに肘をついた。千代太は布巾を畳んで端に置き、空いている一番端の席に座った。ここひと月、千代太の席はいつもそこだった。
「今日、アオガッパが二回出た」
ひばりがノートを開く。時刻と場所が、二行だけ書いてあった。
「正午前に駅の東側。四時過ぎに中央公園。どちらも、怪人は出ていない」
「うわ、四時って俺バイト中じゃないっすか」
「知っている。だから私と小岩が行った」
「マジすか。あざす」
「妙なのは、どちらも人の少ない場所だったことだ。駅の東側は工事中の区画。公園も平日の夕方で、人がまばらだった」
「じゃあ、なんで出たんですか」
「知らないな」
ひばりはノートを閉じた。
「何かを探していたのかもしれない。今日はここまでだ」
「え、もう終わり?」
「これ以上は、分からない」
話が終わっても、五人はそのまま残っていた。
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そのあとも、五人はしばらく残っている。
「あ、昨日の見ました?」
忍がスマホを出す。画面をひばりと乃絵の方へ向けてから、まだ何も開いていないことに気づいて操作した。
「なにを」
「野球。ライガース対フェニックス」
「見ていない」
「マジすか。オープン戦の九回、やばかったんですよ」
「私はテレビを持っていない」
「うわ」
「乃絵は?」
「見てないなあ。私、野球分かんなくて」
「点多く取った方が勝ちだから」
「それくらい知ってるってー」
「あっ、昨日の見ました?」
果帆が布巾を持ったまま厨房から出てくる。絞りきらないまま来たので、布巾から水が垂れていた。
「見た見た。九回のやつでしょ」
「そうそう! あれヤバくなかった!?」
「ヤバかった」
「あたし、跳ねちゃったもん。一人で」
「一人でかよ」
「一人で!」
果帆がカウンターを拭きながら続ける。同じところを二周してから、隣の席の前へ移った。
「あのさ、最後に出てきた人、九回まで何してたの?」
「田野康二な。代打だよ。ベンチで待ってんの」
「ずっと? 出番あるかも分かんないのに?」
「そういう役なんだって」
「えー。出番来なかったら、来た意味なくない?」
「意味はあんだよ。いるだけで、相手が嫌がんの」
「ふーん。じゃあ昨日は、出番来てよかったね」
果帆はそれで納得したらしく、布巾を絞りに厨房へ戻っていった。忍がスマホをカウンターに置く。画面を伏せて、その上に肘を乗せた。
「つーか、昨日のあそこで左出すの、意味わかんねえんだよな。あの監督、毎回ああなんだよ。去年もそれで落としてんのに」
忍は、誰にともなく言った。
千代太は、口をつけかけていたコップを下ろした。
「あの」
「ん?」
「あれ、たぶん、相手のリリーフが左に弱いからだと思います」
「へえ」
忍がスマホに手を伸ばす。伏せてあった画面を、指先で少しだけ起こした。
「先週のオープン戦でも、同じリリーフに左をぶつけてるんです」
「そうなんですか」
「そのときも打ってるので、データとしては悪くないというか」
「はい」
「そもそもオープン戦って、開幕前に控えを試す場なので、代打が増えるのは普通なんです」
千代太が少し体を前に出す。コップは、手の中に握ったままだった。
「開幕したら、ベンチに残れる人数は限られるので。今のうちに、誰が打てるかを見てるんですよ」
「へえ」
「なので、あそこで左を一枚試すのは、理屈としては正しくて」
乃絵がコップに手を伸ばして止める。指が縁に触れたところで、そのまま動かなくなった。
「ただ、あの球場は右中間が広いので、左の打球が伸びにくいんです。だから、あの人の去年の数字をそのまま見ると悪く見えるんですけど、球場補正をかけると──」
そこで返事がないことに気づいて、千代太は顔を上げる。忍はスマホを見ている。乃絵はコップを持ったまま止まっている。ひばりは最初から聞いていない。ジロウだけがこちらを見ていて、目が合うと少し笑った。続きを待つ顔だった。
「あ」
千代太は口を閉じた。
「すみません、その、いえ。あの、そんな、長い話ではなくて。ただ、その、監督が、いえ、監督の話ではなくて。すみません」
「……はい」
千代太がコップを置くとき、少し音がした。
「……あのさぁ……前橋さん、そういうとこ陰キャすぎない?」
忍が言った。手の中で、スマホを回している。
「……はい」
「いや、俺、監督の悪口言ってただけなんだけど」
「はい」
「別に正解が知りたいわけじゃねえの。文句言いたいだけなんだって」
「……すみません」
「謝んなくていいって」
「はい」
「あとさ」
忍が丸椅子の上で、後ろへ体を反らした。
「途中から監督の話ですらなくなってたよね。球場がどうとか。俺、そこまで求めてないんだけど」
千代太は答えられなかった。両手を膝の上へ下ろした。
「関内ー」
乃絵が言った。
「なに」
「言い方」
「俺、間違ったこと言ってる?」
「間違ってはないけど、言い方だってば」
忍は、またスマホを指で回しはじめた。
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引き戸を出たところで、ジロウが横に並んできた。
「前橋さん」
「はい」
「さっきのは、その」
「大丈夫です」
「いえ、大丈夫じゃないと思います。関内さん、言い方がきついので」
「俺は続き聞きたかったですよ。俺、野球好きなんで」
「え」
「うち、父親が見るので。でも、見てるだけなんで、さっきの話は分からなくて」
「……すみません」
「そうじゃなくて。球場補正って、なんですか」
「え」
「知りたいです。今度、教えてください」
「……はい」
「あと、俺、前橋さんがいてくれて助かってます」
「……ありがとうございます」
「本当に。いつも先に来て、いろいろやってくれてますし」
千代太は頷いた。いつも先に来て、のあとは、いろいろ、だった。
「はい。ありがとうございます」
「……はい」
千代太は頭を下げて、駅の方へ歩き出した。
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翌日は雨だった。千代太は昼前に一件、午後にもう一件、営業先で断られた。夕方、駅前の歩道で少し立ち止まった。疲れていた。
「あの」
声をかけられて顔を上げると、傘を差した女が立っていた。若い。黒い髪を長く垂らして、白いコートを着ている。
「前橋千代太さん、ですよね」
「え」
「違いました?」
「いえ、合ってます。合ってますけど」
その顔に見覚えがある気がした。どこで会ったかは思い出せない。
「あの、どこかでお会いしましたっけ」
女がおかしそうに笑う。口元を手で隠さずに、そのまま笑った。
「それ、古典的なナンパの台詞ですよ」
「え」
「知りませんでした?」
「し、知らないです。あの、そういうつもりでは」
「分かってます」
「本当に違うんです。本当に、お顔に見覚えがあって」
「あら」
「あの、すみません、俺、そんな」
千代太の顔が耳まで赤くなり、女はそれをしばらく眺めてから言った。
「声をかけたのは、むしろ私の方ですけどね。お話があって」
近くの喫茶店に入る。夕方の時間で、奥の席は半分ほど埋まっていた。席に着くと、女がコーヒーを二つ頼んだ。
「あの、失礼ですけど」
「はい」
「俺に、どういうご用でしょうか」
「用というほどのことじゃないんです」
女はコーヒーを頼んで、それから言う。メニューを閉じて、卓の端まで戻した。
「ただ、見かけたので」
「見かけた、ですか」
「はい。私、駅北のアパートに住んでるんです。前に、更新のときに名刺をいただいて」
「そう、でしたっけ」
千代太は思い出そうとした。更新の手続きで名刺を渡した相手なら、何人もいる。一人ずつの顔までは覚えていない。
「それからこの三週間くらい、駅の周りで何度かお見かけして」
「すみません、俺、覚えてなくて」
「いいんですよ。担当の方は、入居者のことなんていちいち覚えてないでしょうし」
女が少し首を傾げると、垂らした髪が肩から落ちた。
「あの、余計なことを言っていいですか」
「はい」
「前橋さん、いつも人に手を貸してますよね」
「え」
「駅の階段で、ベビーカーの前を持ってあげてました。先月です。雨の日に、傘を差してない人に自分のを渡してるのも見ました。さっきも、ここに入るとき扉を押さえてくれましたね」
そんなことを人に言われたのは、初めてだった。
「別に、たいしたことじゃなくて」
「たいしたことじゃないですか?」
「はい」
「そうですか」
女は運ばれてきたカップに、砂糖を入れずに口をつけた。
「じゃあ、話を変えますね。お仕事、大変ですか」
「え」
「顔に出てましたよ」
「……まあ、大変ですけど……あー……あの、すみません、うまく言えなくて」
「急がなくていいですよ。時間はありますので」
千代太は、少しずつ話しはじめた。契約が取れないことや、会議の資料が課長の手柄になったことを話した。途中で話が前後して、エリアの話が去年の研修の話になり、また戻った。女は遮らずに聞いていた。最後に、居酒屋の座敷から聞こえてきた話をした。そうして、一時間ほど喋った。
「呼ばなくていいでしょ、もうって」
「そう言われたんですね」
「はい」
女はしばらく黙ってから、言った。
「二次会、なぜ行かないんです?」
「え」
「行きたくないんですか」
「……はい」
「あら、正直」
「すみません」
「いえ。理由を伺っても?」
千代太は、カップの取っ手に指をかけたまま少し迷った。
「行っても、俺、面白い話できないので」
「はい」
「つまらない人間が二時間いるのって、たぶん、向こうも困ると思うんです」
「なるほど」
「だから、帰った方がいいかと」
女は、両手を膝の上で重ねた。
「じゃあ、一次会はなぜ行くんです?」
千代太は答えに詰まった。
「断れないから、ですか」
「……はい」
「断れないから一次会には出て、二次会には出ないで帰る。それ、いちばん損してますよ」
「損、ですか」
「二時間、気を張って座ってるんですよね。疲れるでしょう」
「……はい」
「そこまでして出てるのに、二次会に来ないってだけで、付き合いが悪いって言われる。最初から行かない人と、言われることは同じじゃないですか」
千代太は顔を上げた。
「……そう、かもしれないです」
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「じゃあ、私はこれで」
「あ、はい」
「よかったら」
女がスマホを出す。
「連絡先、交換しません? また愚痴を言いたくなったら、聞きますから」
「え」
「嫌でしたか」
「いえ、あの、そんなことは」
千代太は慌ててスマホを出したが、指が滑って一度落とした。拾って、交換する。画面に出た女の名前は、アルファベットが一文字だけだった。
女が伝票を取って、立ち上がった。
「じゃあ、また」
「あの」
千代太も立ち上がった。
「お名前を、伺ってもいいですか」
「それ、さっきよりナンパっぽいですよ」
「あっ」
「次に会ったときに教えますね」
女は笑って、レジの方へ歩いていった。
その晩、メッセージが来た。
『今日はありがとうございました』
『こちらこそ』
『ちゃんと寝てくださいね』
千代太は、少し迷ってから『おやすみなさい』と返した。




