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第六杯目 アブラはヌキで①

朝七時十分。千代太はいつも一番に事務所へ入る。鍵を開けて、電気をつけて、エアコンを入れる。給湯室で湯を沸かし、その間に複合機の用紙を確認する。今朝も減っていた。倉庫からA4を二束、A3を一束運んで、トレイに入れる。一番下のトレイが引っかかる。半年前からそうだ。奥まで押し込むと直る。流しに残っていた昨日の茶殻を、袖をまくって取った。一度、寝坊したことがある。一年目の冬だった。九時十分に着いたとき、事務所の明かりはもうついていた。


「前橋、鍵」


「すみません」


「すみませんじゃねえよ。新人が開けるもんだろ。なんで俺が開けてんだよ」


課長だった。ほかの人たちは自分の席で、パソコンを立ち上げたり、スマホを見たりしている。


「鍵番が一番遅く来てどうすんだよ。それすらできねえのか」


「すみません」


「舐めてんのか?」


「舐めてないです」


課長の説教は十分ほど続いた。それ以来、千代太は目覚ましを二つかけている。


---


九時から会議だった。千代太は末席でノートを開く。議事録は千代太の仕事である。発言者と要旨を追って、あとで清書して回す。


「で、この稼働率の推移なんだけどね」


課長が手元の資料をめくる。今朝、千代太が人数分刷ったものだ。


「見てもらうと分かる通り、駅北の物件の稼働率が、去年から落ちてるんですよ。これ、うちが気づいてなかった話でね。私、これはまずいと思って、三年分洗い直したんです」


千代太のペンが止まって、また動く。書かないわけにはいかない。


『課長:駅北の稼働率低下を指摘。三年分の推移を分析』


資料は、千代太が作ったものだった。一昨日の夜に取りかかり、昨日は終電で帰って、家で朝の四時まで続けた。倉庫から去年の紙の台帳まで出してきた。課長に送ったのは、今朝の四時二十分である。


「三年分って、どこから出したの」


部長が言った。


「倉庫の紙の台帳までひっくり返しましたよ。夜中までかかりましたけど」


『課長:分析に相当の工数を要した旨、言及』


「だから何?で、駅北。誰が担当だったっけ」


「前橋です」


課長が答えると、部長が千代太の方を向いた。


「あ、そう。前橋、どう思う?」


千代太は顔を上げた。ペンを止めたので、議事録の行は書きかけで残った。


「あ、はい。えっと、駅北は築年数が二十年を超えてる物件が多くて、それで」


「ごにょごにょ喋んなよ。築年数なんて前から分かってることだろ」


課長が親指で資料の端を弾いて、駅北のページを何枚かまとめて飛ばした。


「次のページ見てもらえますか」


千代太は口を閉じる。開いたままの手元のページに、駅北の表がまだ載っていた。


『前橋:築年数について発言』


そう書いているうちに、話は次の議題へ移っていた。そこから先は、議事録が追いつかなかった。何人かが同時に喋って、誰の発言か分からなくなる。一つ書き終える前に、話が次へ移る。前の行を直そうとすると、また置いていかれた。


---


夕方、千代太は外回りから事務所に戻った。課の席には、まだほとんどの人が残っていた。


「前橋」


課長が呼んだ。画面から目を離さないまま、指だけをこちらへ向けている。


「はい」


「今月、いくつだ」


「……一件です」


「一件」


「はい」


「先月は」


「二件です」


課長が椅子を回してこちらを向く。肘掛けに片腕をかけて、脚を組んだ。


「お前さ、何やってんの」


「回っては、います」


「回ってるのなんか当たり前なんだよ。回って一件なら、サボってんのとのと同じだろ」


「はい」


「他の連中は五件も六件も取ってんの。なんでお前だけできねえの」


「すみません」


「謝る気があるんだったら数字どうにかしろよコラァ」


課長が机の上に放った紙は、今朝の議事録だった。


「あと、これ何?」


「……すみません、話が速くて、書くのが追いつかなくて」


「言い訳すんじゃねえよ。途中から意味不明なんだけど。AIに書かせた方がマシだろ」


「はい」


「数字も出ねえ、議事録も取れねえ。お前、なんのために生きてんの?」


千代太は黙っている。机の縁に置いた手が、指先だけ内側へ丸まっていた。


「ハングリーさがねえんだよ、お前は」


「……はい」


「困ってねえんだろ。どうせ実家暮らしで、家賃も親持ちなんだろ」


「実家は、その」


「言い訳すんな」


「はい」


「数字ってのはな、取らなきゃ死ぬと思ってる奴が取るんだよ。お前、死ぬと思ってねえだろ」


「思って、います」


「思ってねえよ。死ぬ気でやってる奴が、そんなぼけっとした顔してるかよ」


課長が身を乗り出す。椅子の背が鳴って、机の上の紙が一枚ずれた。


「未達は給料泥棒だぞ。会社の金でメシ食ってんの、分かってる?」


「はい」


「一年目の子でも二件取ってんだよ。お前どうなってんの?」


「……はい」


「はい、じゃねえだろ」


課長が椅子を戻す。回しきる手前で一度止めて、画面の方へ向き直った。


「俺もな、そろそろお前見捨てたくなってきてんだよ」


まわりの席には同じ課の連中がいたが、誰もこちらを見なかった。


---


その日、千代太は一人で飲んだ。駅前のチェーンの居酒屋である。魁星に集まるまで、まだ一時間あった。カウンターの端で、ビールを一杯だけ頼んだ。飲む習慣はないが、素面でいる気にもならなかった。ジョッキが半分になった頃、後ろの座敷が騒がしくなった。同じ課の連中の声だった。課の飲み会があることを、千代太は聞かされていなかった。見つかると気まずい。千代太は体を縮めて、そのまま動かずにいた。


「いや、あれはないでしょ」


声が聞こえてくる。


「前橋?」


「そう。今日も課長にやられてたじゃん」


千代太はジョッキを置く。持ち上げたときについた水の輪が、卓に二つ重なっていた。


「あのデブさあ」


「デブは関係なくない?」


「関係あるだろ。営業だぞ」


「あー」


「初回で会う客が、あれ見てどう思うかって話だろ」


「まあ、印象はな」


「悪いやつじゃないんだよ。害はないの」


「そうだね」


「でも、いいとこそれだけじゃん」


「厳しいな」


「数字は未達、話はつまんない、見た目もあれ。まあギリ害がないだけ」


そこで、若い声がする。去年入ってきた子だった。内見の段取りを、先月教えたばかりである。


「あの、でも、前橋さん、いい方ですよ。いろいろ教えてくださって」


少し間があった。


「あのさ」


先輩の一人が、新人に言った。


「あの人から教わるの、やめときな」


「え」


「悪口じゃなくてね。君のために言ってんの」


「……はい」


「先輩だからって、言うこと全部聞く必要ないから。あれはポンコツだから。変な癖つく前に、ちゃんと出してる人に付きなよ。ああはなるなよ、ってこと」


「……はい」


新人の声は、それきり聞こえなくなった。


「つーかあの人、部の飲み会でも二次会来ないじゃん」


「来ないね」


「呼んでも来ないし、来ても喋んないし」


「呼ばなくていいでしょ、もう」


「部長も持て余してるらしいよ」


「だろうね」


「異動させようにも、どこの部署も要らないって言うんだって」


千代太はジョッキの縁を見ていた。二次会に行かないのは事実だった。


「なんで一次会は来るんだろ」


「顔だけ出しときゃ許されると思ってんでしょ。若手なんだから、最後まで付き合えって話だよね」


「いや、つまんないからいらねえよ」


笑い声がする。


「お前、酔うと本音出るな」


「素面でも言うって。話が面白いならまだいいの。そうじゃないならイッキでもしてくれなきゃ盛り上がらねえだろ。俺ら若いのが先頭に立って盛り上げないといけねえのにさ。社外の接待でもあんな感じなわけ? そりゃ数字取れねえよ。はあ、課長もかわいそうだわ」


「言い過ぎ言い過ぎ」


「え、じゃあお前あいつの指導係やってあげてよ」


「それはやだよ」


千代太は財布を出し、伝票を取って、静かに立ち上がった。レジで払って、座敷に背を向けたまま店を出た。

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