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第五杯目 やさしさの処方箋⑤

魁星に着いたのは、七時過ぎだった。大豚が寸胴の火を落としている。今日の営業は終えているようだ。


「お疲れ様でした」


「疲れたー。俺、なんもしてねえけどな」


忍がカウンターに突っ伏した。


「いやいや、間に合って戦ってくれたじゃないですか」


「術がわかったらすぐ倒せたじゃん」


ひばりは鞄からノートを出して、何か書いていた。


「何書いてるんですか」


「戦いのせいで行けなかった店だ。予定を組み直している」


「すみません」


「お前も大概しつこいな。整理しているだけだ。気にしていない」


ひばりはノートを閉じた。


「記録かあ」


忍がカウンターに肘をついた。


「俺も撮っときゃよかった。イエローの華麗なる説得」


「おい、反省してるのか」


「いや撮らないですよ。……撮らないですけど」


---


忍とひばりは、もう先に出ていた。病院に鞄を忘れていた千代太がちょうど入店してきたのと入れ替わりに、乃絵が帰り支度を始めた。


「じゃあ、私、帰りますね」


「あ、お疲れ様です」


「お疲れ」


千代太が、乃絵の背中に声をかけた。


「あの」


「はい?」


「小岩さんって、すごいですね」


乃絵が振り返った。


「え、なんですか急に」


「いえ、その、今日の」


千代太は鞄の持ち手を握っていた。


「営業やってるのに、話を聞くって、あんなに難しいと思わなくて」


「そんなことないですよ」


「ありますよ。実際俺、今日も何もできなくて」


千代太はそこで少し笑った。


「そんなこと」


「皆さん俺のこと、あんまり戦力だと思ってない感じじゃないですか」


千代太は、言ってから自分で驚いた顔をした。


「あ、いや、今の忘れてください。すみません、悪口みたいになっちゃった。そういうつもりじゃなくて。皆、その、俺なんかよりずっと」


千代太は慌てて手を振った。


「前橋さん」


「はい」


「そんなことないですよ」


乃絵が笑った。


「じゃあ、お先です」


そう言って、乃絵は店を出ていった。ジロウも大豚に頭を下げて、あとに続いた。


千代太はしばらくその場に立っていた。引き戸が閉まりきるまで、そちらを見ていた。


「あの」


厨房の方を見ると、大豚がシンクの前に立っている。


「洗い物、手伝いましょうか。いつもご馳走になってるし」


「神豚の補給に過ぎない。一人でやる」


「いえ、やります」


千代太が上着を脱いで袖をまくり、カウンターの端から厨房へ回ろうとした。


「だからいいと言ってるだろ」


「あ、すみません」


千代太は袖をまくったまま、元の椅子に腰を下ろした。千代太が上着を取ろうとしたとき、椅子の下に紙が落ちているのが見えた。胸ポケットに入れていた、健康診断の再検査の紙だった。開いて、表を上にしている。千代太が屈むより先に、洗い物を終えてカウンターの外へ出てきた大豚が、それを拾い上げた。そのまま紙を畳み直して差し出してくる。


「……あ、それ」


「別に見ていない。お前の分もできる」


大豚はもう釜に火を戻していた。テボに玉を一つ落として沈める。それから寸胴の蓋を開けて、玉杓子を入れた。表面に浮いた層を縁で向こうへ寄せて、その下の澄んだところだけを掬い上げる。丼にタレを引いて、そこへ注いだ。


麺が上がる。テボを釜から抜いて、三度。手の高さも、振り下ろす角度も、寸分違わず同じだった。カウンター越しに見ていても、真似のしようがない。麺が丼へ落ちて、その上にヤサイが積まれる。ニンニクは訊かれなかった。


「あー……ありがとうございます、でも俺腹が……」


大豚が、アブラヌキの丼をカウンターに置いた。


「明日から、アブラを抜け。麺は普通でいい」


千代太はカウンターの紙を取って、鞄の一番奥へ入れた。紙は、千代太が畳んだのとは違う折り目で畳まれていた。


「あの、なんで……あ! 見てたんじゃないですか!」」


そう言って大豚が寸胴の蓋を閉めた。


千代太は丼を引き寄せる。スープを一口飲んで、少し眉を上げた。二口目は、確かめるようにゆっくり飲んだ。麺を手繰る手が、いつもより遅い。ヤサイを崩し、麺を返し、途中で一度だけ、丼の中をじっと覗き込んだ。


千代太は少し逡巡したが、結局は丼を持ち上げて、スープを全て飲んでしまった。


「ごちそうさまでした」


---


病院の面会時間は八時までで、乃絵が戻ったのは七時五十分だった。帰り道で、家の鍵がないことに気づいた。思い当たるのは、ロビーに置いてきた紙袋だけだった。


「すみません、忘れ物しちゃって」


受付でそう言うと、看護師が笑った。


「小岩さんの袋ですよね。預かってますよ」


「大変でしたよね、さっきの。何がなんだか分からないうちに終わってましたけど」


「そうなんですか」


「みんな時計見て驚いてました。一時間くらい飛んでるんですよ」


「へえ」


乃絵はそこで話を終わらせた。紙袋の底を探ると、古いタオルのあいだに鍵が挟まっていた。時計を見ると、まだ十分ある。エレベーターに乗って四階で降り、廊下の突き当たり、個室のドアを引いた。


窓の外はもう暗い。街灯が、雨上がりの駐車場を照らしている。ベッドに、目を閉じた青年が横たわっていた。胸が規則正しく上下しているが、それ以外は動かない。乃絵はベッドの隣にある椅子に座った。


サイドテーブルの上には、他に何も乗っていない。花も、菓子も、写真もない。乃絵は棚を開けて着替えの数を数えた。それから、青年の手を取った。何も言わないまま、十分ほどそうしていた。


窓の外で、車が一台、駐車場から出ていく。白線が途中で消えていた。アスファルトが抉れた一角にロープが張られて、そこだけ街灯が届いていない。三角コーンが四つ、雨に濡れて並んでいる。


乃絵は手を離し、掌を膝の上で握ってから、立ち上がった。


「また来るね」


それだけ言って、ドアを開けた。


廊下で、看護師とすれ違った。


「小岩さん、ちょうど時間ですね」


「はい。ぎりぎりですみません」


「気をつけて」


「ありがとうございます」


乃絵はいつもの顔で会釈をした。エレベーターのボタンを押して、少し待つ。扉が開いて乗り込み、一階のボタンを押した。


病院の外へ出たところで、鞄の中でスマホが鳴った。画面に、菅七海、と出ている。高二で同じクラスになってからの親友で、いまは地方の医学部に通っている。


「おつかれー」


乃絵は明るい声で出て、バス停のベンチに腰を下ろした。来たバスを一本見送り、二本目が来るまで話していた。

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