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第五杯目 やさしさの処方箋③

ジロウと千代太は、少し離れたところでそれを見ていた。乃絵が立ち上がって、膝を払いながら戻ってくる。


「……今の、なんで靴紐結んだんですか」


「お母さんがね、ずっとその話してたの。毎朝、玄関で結んであげてたんだって。六年生になっても」


ジロウは、少年の足もとを見た。さっき、拾えるものを探して床ばかり見ていたとき、ほどけた紐は目の前にあった。


「俺、あの子に、ここは病院だって何回も言いました」


「うん、聞こえてた。めっちゃ言ってたね」


「……間違ってましたか」


「んー、間違ってはないと思うよ? でもさ、楽しい夢見てるときに、それ夢だよって起こされたら、ムカつかない?」


「……ムカつきます」


「でしょ。だから、自分で目、覚ましてもらおうと思って。お母さんがいつもやってたこと、やってみた」


「待ってるの、怖くなかったですか。そのあいだに、他の人が」


「怖かったよ。めっちゃ怖かった」


乃絵は笑った。


「でも、急いでもだめだったじゃん。三田くんので分かったから」


「……すみません」


「なんで謝んの。助かったって言ってんの」


「あの、俺も、すみません」


千代太が、自分の掌を見たまま言った。


「大丈夫ですよって、言っちゃって。ああいうこと言えば、落ち着いてもらえると思って。……お母さんの話、途中で取っちゃいました。仕事でも、たぶん、こうなんです。お客さんの話、最後まで聞く前に、こっちの説明始めちゃって」


「えー、じゃあ練習しましょ。次の人、前橋さんが聞く係で。私、横で黙ってる係やるんで」


乃絵はもう、廊下の先の一人の方へ歩き出していた。


---


その後は早かった。一人が戻ると、その人が隣の人に声をかける。


戻った母親が、隣のベンチの老人の肩に手を置いた。


「ちょっと、おじいちゃん。何見てんの。いいもの?」


老人の口が動いて、何か答えた。母親は顔を寄せて、それを聞いている。少年は面倒くさそうな顔で、その横に立っていた。


「知り合いですか」


ジロウが訊くと、母親は老人から目を離さずに答えた。


「知らない。隣に座ってたから」


老人がこちらを向いて、「……あんた、誰ね」と言った。母親が笑った。


廊下の先では、千代太が壁際の男の前にしゃがんで、黙って頷いていた。乃絵がその横に立っている。


床を流れる霧が、次の一人へ向かおうとした母親の足元に届いた。母親は足を止めて、また笑い始めた。


「まだじゃ。まだ足りぬ」


「おい。……母さん。母さんって」


少年が母親の肩を掴み、すぐに手を離して、顔を覗き込んだ。


「……なに」


「えーと、……今日の晩めし、何」


「そんなの、帰ってから考えるわよ」


母親は、冷蔵庫に何が残っていたかを、指を折りながら喋り続けている。その足元で、霧が止まっていた。


少年が、立ち止まったままの男の前にしゃがんだ。戻った看護師が、応援を呼びに走っていく。廊下のあちこちで、顔を上げる人が増えていった。


「待て。そう、いっぺんには」


廊下の奥で、白い胴が左右に振れた。霧が薄くなっていく。


「……減ってる。霧、減ってる!」


乃絵が言った。


廊下の入口から、忍が駆け込んできた。ひばりがその後ろを歩いてくる。病院の前で一緒になったらしい。


「間に合ったァ!」


忍は膝に手をついて、前のめりに息をしている。


「でかい声出すな。病院だぞ」


「走ってきたんだよ!」


忍が顔を上げて、三人を見た。


「……なんで変身してねえの」


「顔見せないと、話、聞いてもらえないから」


乃絵が言った。忍は廊下の奥を見た。白い胴が、笑ったまま立っている人の向こうで揺れている。


「てか、あれ殴ればよくね?」


「殴っても、すり抜けちゃうんだよ。人が戻ってくると、あれ薄くなるみたいだから、先にこっち手伝って」


「めんどくせえ……。で、どうすんの」


「話しかけて、向こうが喋り出したら、終わるまで聞いてて。途中で口挟むと、また戻っちゃうから」


「終わるまでって、どんだけ」


「わかんない。五分くらい?」


「なっが」


忍は舌打ちをして、それでもベンチの前にしゃがんだ。


「おっさん、なに見てんの」


男は笑ったまま、天井の隅を見ている。


「なあって。言えって」


忍は舌打ちをして、膝の上で手を組み直した。


「……どうせいい話なんでしょ。聞くから」


男の口が動いた。三十年前の競馬の話だった。忍の知らない馬が、最後の直線で外から差したらしい。忍は「へえ」「マジで」とだけ返して、最後まで聞いていた。話し終えると、男は忍の顔を見た。


「あんた、誰」


「いや、別に。……その馬、勝ってよかったじゃん」


ひばりは反対側の端で、壁にもたれた女の前にしゃがみ、黙って話を聞いていた。女が黙ると、立ち上がって次の一人へ移る。


「やめよ」


ヴァンナインの声が、震えた。


「やめよ。……やめぬか。せっかく、みんな、いい顔をしとったのに」


ヴァンナインの声が震えた。床の霧が、白い胴の方へ引いていく。胴の縁から吸いこまれるたびに、膨らんでいた胴がひと回りずつ縮んだ。


最後の一人が立ち上がると、床の霧は消えた。霞んでいた胴の縁が、くっきりした線になる。霧の塊だった胴が、焼き物のような硬い面に変わっていた。応援の看護師たちが、戻った人を外来の待合へ連れていく。廊下には、五人と白い胴が残った。


「今なら斬れます」


ジロウが言った。五人は腕輪に食券を差し込んだ。


「マシマシチェンジ!」

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