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第五杯目 やさしさの処方箋②

「関内さんたちに来てもらいます」


アブラホワイトが腕輪に手をやる。


『はい、なに』


電話に出たのは忍だった。背後で音楽が鳴っている。


「関内さん、病院です。総合病院。怪人が出てます」


『え、今?』


「今です」


『……俺、今大学なんだけど』


「来てください」


『まあ行くけど、四十分かかるわ』


「もうちょっと早く来れませんか!?」


『飛ばして三十五。……いや無理か。電車の時間による』


「じゃあ何分ですか」


『分かんねえよ! 走るから!』


忍の声が、走る息に変わった。


ヤサイグリーンが腕輪の通信を切り替えた。


「目黒さん、総合病院に怪人です」


『三十分。環七沿いの店に並んでる。今抜ける。道が混んでたら、もう少しかかる』


ひばりの声だった。通信の向こうから、二人分の音が入ってくる。忍の方は、走っている音だった。足音と、息と、時々ぶつかりそうになったらしい相手への「すいませんっ」が混ざる。ひばりの方では、誰かに「すみません、抜けます」と言う声がして、それから車のドアの閉まる音がした。


「……並んでたんですか」


グリーンが訊いた。


『あと三人だった』


「すみません」


『……また並べばいい話だ』


そこで、忍の方から声が入った。


『あのさあ、ちょっといい? これ、走ってる意味ある? 俺が着く頃には終わってるパターンじゃね?』


「そしたら無駄足ってことで。いいから来て!」


グリーンもホワイトも、通信を切った。


怪人は廊下の入口から動かず、霧を吐き続けている。


ブタレッドは両手を開いて豚斬包丁を呼び、踏み込んで白い胴へ振り下ろした。


刃は胴に入った。


手応えがない。刃が胴を通り抜けて、そのまま反対側へ出ていく。斬った跡から霧が漏れて、すぐに塞がった。


「効かない」


「霧だよ! 中身が霧なの!」


グリーンが叫ぶ。矢を番えかけて、そこで弓を下ろした。怪人の向こうに、ベンチの人がいる。


「無駄じゃよ」


怪人が笑う。


「わしはヴァンナイン。この病院じゅうの、みんなの思い出でできとる」


胴がゆっくり膨らんだ。


「思い出しとる者が増えるほど、わしの霧は濃くなる。斬っても意味がなかろう」


ホワイトが槌を振りかぶった。


「やめてください! 後ろに人がいます!」


グリーンが止めた。ヴァンナインのすぐ後ろのベンチに、笑ったまま座っている人が並んでいる。霧の胴を槌が抜ければ、その先にいるのは人だった。ホワイトは、振りかぶった槌を胸の前に戻した。


「そうじゃ、そうじゃ。よう見ておるな」


ヴァンナインが、短い足でこちらへ歩き出した。ベンチのあいだを抜けてくる。その足元から、霧が濃くなっていく。あいだに人がいて、手が出せない。三人はじりじりと下がった。


「お前さんらも、疲れておろう。楽になればええ」


霧がこちらへ伸びてきた。


---


レッドの視界が白くなった。


夏の稽古の、道場の匂いがした。面の中で息が上がっている。目の前で、鷹志が竹刀を構えている。この一本が入れば、鷹志から初めて面を取れる。入部してから一番調子のよかった、あの日の稽古だった。体が前へ出かけた。


「三田くん!」


道場が消えた。霧の流れるロビーで、グリーンがレッドの腕を掴んでいた。


隣で、ホワイトがふらついている。口が、ゆっくり動いていた。


「あの、お客さん、そのお話、もう一回」


「前橋さん! 戻ってください!」


グリーンがホワイトの肩を掴んで揺すった。


「っ、はい、すみません」


ホワイトが姿勢を戻す。


「喋っててください。三田くんも、呼んだら戻ってきたんで。声出してれば、たぶん大丈夫です」


「何をですか」


「なんでも。今日、朝ごはん何食べました?」


「あ、はい。……納豆と、卵と。卵は目玉焼きで、あの、黄身を固めにするか迷って」


ホワイトの話は、黄身の固さからフライパンの手入れへ移っていった。グリーンは相槌を打ち続けている。


霧はロビーいっぱいに広がってきていた。三人は、ロビーの脇の廊下へ下がった。


---


廊下にも、霧が流れていた。ベンチに座った人も、立ち止まった人も、みんな笑っている。車椅子の老人が、点滴のスタンドに向かって手を振っていた。「いってらっしゃい」と何度も言っている。廊下の真ん中では、看護師が立ち止まったまま笑っていた。足元に、カルテが落ちている。


「これ、放っておいたらどうなるんですか」


「分かんない」


グリーンが答えた。


「でも、たぶん、水も飲まないよね。三日も四日も、笑ったまま。……一人ずつ、戻すしかないね」


「戻すって、どうやって」


「話しかけて、こっちに気づいてもらうしかないと思う」


グリーンが廊下を見渡して、それから自分の手を見た。


「三田くん、変身、解こう」


「え」


「顔が見えないと届かない。声も、この中からだと遠いし」


「でも、見られたら」


「見てる人、いないよ。戻っても、たぶん覚えてないし」


レッドはもう一度廊下を見た。誰の目も、こちらを向いていない。


グリーンが先に変身を解いた。光が散って、乃絵が立っている。ホワイトとレッドも続いた。


ジロウが立ったのは、中学生くらいの少年の前だった。学ランの第一ボタンが外れていて、髪が目にかかっている。椅子に浅く座って、足を投げ出したまま、少年も笑っていた。


「おい」


肩を叩いても、反応がない。


「聞こえるか。おい。今、病院にいるんだ。分かるか」


少年の口が、少し動いた。


「……とうさん」


「え」


「とうさん、それ、ほんとに買ってくれるの」


ジロウは言葉に詰まった。廊下の先が目に入る。笑ったまま動かない人間が、この廊下だけでもまだ何人もいる。その先の待合にも、まだいる。一人にこれだけかけていられない。


あの日、電柱の脇で、乃絵は側溝に挟まったボールを掻き出して、泣いている女の子に放ってやった。ジロウは少年の周りを見た。椅子の脚、床、投げ出された足。拾ってやれるものは、何も落ちていなかった。


ジロウはしゃがんで、少年と目の高さを合わせた。


「いいか。ここは病院だ。椅子に座ってるだろ。父さんはここにいない。今見てるのは、前のことだ」


少年は笑ったままだ。


「分かるだろ、それくらい」


少年は笑ったまま、ジロウの肩の向こうを見ている。


「そこにいたら危ないんだ。早く目を覚ませ」


ジロウは少年の肩を掴んで揺すった。


「聞こえてるだろ! 目を覚ませって!」


少年の眉が寄った。


「……うるさい」


「聞こえてるんだな。じゃあ、立て」


「うるさいって言ってんだろ!」


少年はジロウの腕を振り払い、その拍子に椅子から滑り落ちた。床に手をついて後ずさる。顔が怯えている。


「あ」


ジロウが手を伸ばすと、少年はその手から逃げて、また笑い始めた。目の焦点が、さっきよりも遠くへ外れている。


「起こすでない。ええところにおるのに」


霧の向こうから、ヴァンナインの声がした。


千代太は少し離れた場所で、車椅子の老人の横にしゃがんでいた。


「あの、失礼します。前橋と申します」


老人は手を振り続けている。


「あの、その方、どちらへ行かれるんですか」


老人の手が、止まった。


「……仕事」


「何時ごろ、出られるんですか」


「毎朝な。七時に出る」


「早いですね」


「早いよ。だから、おれが起きて、見送るんだ」


「……もう、行ったな」


老人は手を下ろし、目をしばたたいた。


「……あれ」


「大丈夫ですか」


「おれ、今、誰に手を振っとった」


千代太が答えられずにいるうちに、老人は自分の膝を見て、それから点滴のスタンドを見上げた。


「……ああ。これか」


老人は照れたように笑った。


「前橋さん、今の、どうやったんですか」


「え、いや、俺は何も。話しかけたら返事が来たので、その、返しただけで」


千代太は頭を掻いた。


ジロウは次の一人の前に立った。三十くらいの女で、壁にもたれて、両手を胸の前で組んでいる。今度は、急がなかった。


「何が見えてるんですか」


女は笑ったまま、組んだ手に目を落としている。ジロウは待った。廊下の向こうで、立ち止まっていた男が一人、笑い始めた。霧が一段濃くなる。


「……すみません」


ジロウは女の前を離れた。


千代太は、次の一人で手こずっていた。少年が座っていた椅子の隣で、四十くらいの女が笑っている。手にお薬手帳を持ったまま、指一本動かさない。


「あの、お母さん」


千代太は腰を低くして話しかけている。


「今日は、その、いい天気ですね。あ、雨か。すみません」


女は笑ったままだ。


「お子さんが、そこにいらっしゃるんですけど。……大丈夫ですよ。大丈夫ですから。何も心配することはないですから」


女の親指が、お薬手帳の角をゆっくり撫でている。


「こういうときは、深呼吸するといいらしいですよ。ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて」


言いながら、声が上ずった。千代太は同じ文句を、もう一度頭から言った。


「あの、俺、前橋と申します」


千代太は名刺入れに伸ばしかけた手を、膝で拭いた。


「よかったら、少しお話でも」


女は笑ったまま、ぽつりと言った。


「あの子、あの日、すごく喜んで」


「はい! そうですね! 喜んでらっしゃった! それはよかったですね!」


千代太が身を乗り出した。女は口を閉じて、また笑うだけになった。


「……あ。すみません、俺、今、何か」


「前橋さん、代わっていいですか」


後ろから、乃絵が言った。


「……はい」


千代太が一歩下がった。胸ポケットから、折り畳んだ紙が半分覗いている。千代太はそれを指の背で奥へ押し込んだ。


乃絵は女の隣の椅子に浅く腰かけ、何も言わずに待った。一分ほどして、女がまた口を開いた。


「……あの子、あの日、すごく喜んで」


乃絵は黙っていた。女の言葉は、そこで切れなかった。


「靴を買ってあげたんです。運動靴。青い、線の入ったやつ。安いのしか買えなくて。でもあの子、それを玄関に並べて、何回も見に行って。次の日の朝、履いて、走って学校行って」


笑った顔のまま、女の目から涙が落ちた。乃絵は、女の膝の上のお薬手帳を見ていた。


「あの子、まだ靴紐が結べなかったんです。六年生なのに結べないのかって、友達に言われて。私が毎朝、玄関で結んでやってたからなんです。教えればよかったのに。教える時間は、あったのに」


「……はい」


女は同じ話を、もう一度頭から繰り返した。乃絵は二度目も、同じところで頷いた。二度目の終わりで、女は黙った。


「……それが、一番、幸せでした」


乃絵は、女の方へ少しだけ体を向けた。


「その子、今、すぐそこにいますよ」


女の肩が震えた。


「……え」


「ほら、そこです」


女の目がゆっくりと動いて、少年に止まった。


「しゅうと。……しゅうと、あんた、なんでそんなとこに」


女が椅子から立ち上がり、一歩踏み出してよろけた。千代太が慌てて支えた。女は千代太の腕につかまったまま、少年の方を見ていた。笑みは消えていた。


「小岩さん、あの子は、どうしたら」


ジロウが訊くと、乃絵は少年の前へ行ってしゃがんだ。スニーカーの紐が、片方ほどけている。乃絵は手を伸ばして、黙って結び始めた。少年の足は動かない。膝も爪先も、力が入っていない。


乃絵の指が、ほどけていた紐で輪を作った。少年は床に座りこんだまま、笑っている。


少年の唇が動いた。


「……とうさん、それ、ほんとに」


声が途中で切れた。少年の目が、ゆっくり足元へ下りていく。乃絵が、もう片方の紐を輪に巻きつけて、締めたところだった。顔から笑みが抜けて、少年の眉が寄った。少年は足を引いた。


「……え、なに」


「あ、起きた? ごめんごめん、紐ほどけてたからさー」


少年は自分の靴を見下ろした。結び目をほどいて、自分で結び直す。


「お、上手じゃん」


「……普通だし」


少年は顔を上げて、廊下を見回した。立ち止まったままの人が、まだ何人もいる。


「……ここ、病院? なにこれ」


「ねー、なんだろね。みんなぼーっとしちゃってて。あ、お母さん、あっちにいるよー」


少年が振り返った。千代太の腕につかまって、母親が立っている。目が合うと、少年は視線を逸らした。


「……なんで母さんまでいんの」


そう言って、母親の方へ歩いていった。

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