第五杯目 やさしさの処方箋①
乃絵が総合病院に通っていることを、ジロウは偶然知った。火曜の夕方だった。その日は部活が休みで、帰り路で駅前の書店に寄った。剣道の技術書を立ち読みして、結局買わずに出てきたところだった。信号待ちをしていると、向かいの歩道を乃絵が歩いていく。無地の白い紙袋を提げていた。
「小岩さん」
呼ぶと、乃絵が顔を上げた。
「あ、三田くん。部活は?」
いつもの顔だった。
「今日は休みです。小岩さんは?」
「うん、ちょっとお見舞い」
「誰のですか」
「んー」
乃絵は少し笑った。信号機が青になる。
「あ、ごめん。急いでるから。じゃあね」
そう言って、乃絵は総合病院の方へ歩いていく。ジロウはその背中を見送る。紙袋の口から、白い布が覗いていた。畳んだタオルのようだった。
---
翌週の火曜、部活の帰りに駅前を通ると、少し先を、また乃絵が歩いていた。今日も白い紙袋を提げている。竹刀袋を担ぎ直して、ジロウは足を止めた。
交差点の角から、「乃絵ー!」と声が飛んだ。大学生くらいの女が三人と男が一人、乃絵に手を振っている。乃絵は振り返って、ぱっと顔を明るくした。
「みんなでどこ行くの」
「カラオケ。乃絵も来なよ。リカが新曲覚えたんだって」
「えー、聞きたい! でもごめん、今日はパス」
「また火曜パス?」
「火曜は小岩の定休日でーす」
乃絵がおどけて言うと、四人が笑った。男が「じゃあ水曜な、水曜」と言い、乃絵は指で丸を作った。信号が変わって、四人は駅のほうへ渡っていった。
四人が渡りきると、乃絵の顔から笑みが消えた。乃絵は口を結んで前に向き直り、病院の方へ歩いていった。
先週、誰の見舞いかを聞いて、笑ってはぐらかされている。ジロウはその場に立ったまま、乃絵の背中を見送った。
---
三度目の火曜は、雨だった。ジロウは父に頼まれて、病院の隣の商業施設にある薬局へ寄った。外へ出ると、雨が強くなっている。案内図を見ると、渡り廊下から病院の中を抜けて、バス停へ出られるらしかった。ジロウは渡り廊下へ入った。
病院のロビーでは、外来の受付がもう閉まっていた。ベンチに残っているのは、会計を待つ何人かと面会の札を提げた人だけだった。会計の番号を呼ぶアナウンスが流れている。奥のエレベーターの前に、乃絵が立っていた。今日も白い紙袋を提げている。
「あ」
声をかける前に、後ろから呼ばれた。
「三田くん?」
振り向くと、スーツの千代太が立っている。
「あれ、前橋さん」
「あ、どうも」
千代太はなぜか慌てて手に持った紙を折り畳んだ。
「なんですか、それ」
「あ、いえ、これは、その」
「病院の紙ですよね」
「そうです、はい」
「どこか悪いんですか」
「いえ、あの、そういうのじゃなくて」
千代太は目を逸らす。
「検査です。会社の。健康診断」
「そうなんですね」
「ええ、まあ、はい」
歯切れが悪い。そのやり取りに気づいたらしく、エレベーターの前の乃絵がこちらを向いて、歩いてきた。
「あれ、二人とも」
「小岩さん」
「なんでいるの?」
「隣の建物に用があって、雨だったので通り抜けさせてもらってました」
「なるほど」
乃絵は千代太を見る。
「前橋さんは?」
「あ、俺は、検査で」
「検査?」
「健康診断の、その」
「再検査ですか」
「……はい」
千代太がさらに縮こまる。
「どこが引っかかったんですか」
「いえ、大したことないです。血の、あの、数字が」
「肝臓?」
「……いろいろです」
乃絵が吹き出す。
「いいじゃないですか、再検査くらい」
「よくないですよ。三年連続なので」
「え、三年も引っかかってるんですか」
「まあ」
「三田くんは、健康なんでしょ」
「たぶん」
「若いなあ」
千代太がため息まじりに言うと、乃絵が笑った。
「私も去年、貧血で引っかかったんですよ」
「小岩さんも?」
「うん。鉄剤飲めって言われて。でも忘れるんですよね、あれ」
「忘れますよね! 俺も肝臓のやつ飲んでるんですけど、朝の分をよく忘れて」
千代太が食いついた。
「あー、朝は無理ですよね。で、夜に二回分まとめて飲んじゃうんですよ」
「飲みます飲みます。どうせ同じ薬だしって」
「駄目ですよ、二回分いっぺんに飲むのは」
思わず口を挟むと、二人が同時にこちらを見た。三人で笑った。
笑い声が収まらないうちに、会計の番号を呼ぶアナウンスが途中で止んだ。
「あの、下……」
千代太が床を指さした。薄い霧が、床を流れていた。乳白色で、膝の高さもない。ロビーの端から広がってきて、霧が触れたところから、人が止まっていく。ベンチの老人が、手元の診察券を見たまま動かなくなった。会計の窓口の女性が、モニターに手を伸ばした姿勢のまま固まった。
ロビーに残っていた人たちが、同時に笑い始めた。声は出さない。口の端を上げ、目を細めて、何かを見ている顔で笑っている。ジロウは一番近くにいた男を見た。三十くらいのスーツ姿で、手の中のスマホの画面が消えている。男はそれに気づいていない。
「あの、大丈夫ですか」
肩を叩いても、男はこちらを見なかった。
「……はは」
男が小さく笑う。
「そっち持って。落とすなよ」
誰もいない方へ、そう言った。
「え」
「せーの」
男は、何かを持ち上げる仕草をする。両手を前に出して、少し腰を落として、それから重そうに持ち上げる。そこには何もない。
「なんですか、これ」
「離れてください!」
「霧から離れてください!」
ジロウは千代太の腕を引きながら、霧の出所を探す。ロビーの奥、外来の廊下の入口に、怪人が立っていた。丼に似た丸い胴に、短い手足がついている。背は人の腰ほどしかない。白い胴には、赤い渦巻きの模様が太く入っている。胴の縁から、霧が絶えず湧き出ていた。
「なつかしいのう。みんな、いい顔をしとる。そうじゃ、そうじゃ。そこにおればええ」
怪人が言った。しゃがれた、年寄りの声だった。
「あんた、何やってんだ!」
「何もしておらぬよ」
怪人が、ゆっくりと首を傾げる。
「思い出してもらっとるだけじゃ」
薬局の袋を、ジロウもその横に置いた。千代太は鞄を下ろしかけて、抱え直した。
「あの、俺の、財布も入ってて」
「盗る人、いないですって」
乃絵に言われて、千代太はようやく鞄を置いた。
三人は柱の陰へ回って、腕輪に食券を差し込んだ。
「マシマシチェンジ!」




