第三杯目 麺好法師は許さない④
ジロウの隣に、一人の老人が座っていた。七十を過ぎているだろうか。新品時の折り目のついたままのシャツを着ている。その老人が丼を受け取って、嬉しそうに店主に言った。二つ隣で、ひばりはこちらを見ないまま麺を啜っていた。
「前から来てみたくてね」
老人は丼を覗き込んだ。
「楽しみにしとったんだ」
老人はレンゲでスープを一口啜って、目を細めた。
「……うん。うん、これはいい」
老人は、ジロウの方を見た。
「兄さんも、初めてかい」
「あ、はい」
「そうか。ここはね、いい店だよ」
老人はそれから少しだけ話した。歩いて四十分かけて来たこと。週に三回、こうして店を回っていること。今日で五十軒目だということ。
「五十軒?」
「数えとるんだ。手帳にね」
老人は鞄から小さな手帳を出して見せた。日付と、店の名前と、一言だけの感想が並んでいた。
「暇なもんでね」
そう言って笑った。ジロウはその手帳をしばらく見ていた。
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その日の午後には、街の星はさらに増えていた。通りを歩く人の頭の上に、三つ、二つ、一つ。何もない者もいる。コンビニのレジで、店員の頭上に星が一つ浮かんでいるのを見た客が露骨に態度を変えた。
「……あー、いいわ。別の店行く」
駅前では、三つ星の学生が取り囲まれて写真を撮られていた。
「すご、みっつじゃん」
「なんで? 何した人?」
「知らんけど」
星なしの人間は、道を歩いていて避けられた。
「あの人、なしだよ」
「星なしはやばいんじゃない?」
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その日の夕方、ひばりは商店街を歩いていた。次に書く店の下見だった。開店時間と、外観と、並びの位置を確かめておく。日が落ちて、アーケードの下に風が通り始めていた。歩道の隅に座り込んでいたのは、昼間のあの老人だった。上着の前は開いたままで、頭の上には、何も浮かんでいない。
「……あんた」
ひばりは足を止めた。老人は顔を上げて、それから力なく笑った。
「ああ、昼の店にいた人だね」
「そんなところに座り込んで、体調でも悪いのか」
「大丈夫だよ。ちょっと、疲れただけでね」
そうは見えなかった。座り込んだまま、立ち上がろうとする気配がない。
「家に帰ったらね、息子がいてね。……頭の上見て、なんて言ったと思う」
ひばりは答えなかった。老人も答えを待ってはいなかった。
「『親父、なしなんだ』って。まあそれだけなんだけどね」
老人は膝の上で手を組んだ。指の関節が赤くなっている。手袋はしていない。
「言われてみりゃそうかと思ってな。わし、何もしてこなかったからね」
「そんなことはないだろう」
「いや、そうなんだ」
老人は首を振った。
「現役の頃はね、仕事ばっかりしとったんだ。朝出て、夜帰って、それだけ。子どもの運動会も行っていないんだ。女房が何が好きかも、知らんかった。定年してからね、家に自分の居場所がないような気がしてね。テレビ見てても、なんか邪魔しとるような気がして。どう過ごしたもんかと、ずっと思っとった」
そこで、老人の声が少し変わった。
「そんなときにね、あるブログを読んだんだ」
ひばりの手が、鞄の持ち手の上で止まった。
「ラーメンのブログでね。麺好法師の徒然啜っていうんだ。知っとるかい」
知っているとは言えなかった。
「読んどるとね、腹が減ってくるんだ。おかしいだろう、もう胃腸なんかすっかり弱っているのに」
老人が笑った。声は出さずに、肩だけが動いた。
「それでね、一軒行ってみたんだ。書いてある通りだった。びっくりしてね。それからもう一軒、もう一軒って」
指を折った。折りきれずに、途中で手を開いた。
「気づいたら、五十軒でね。あの人が勧めとった豚骨も旨かったよ。あっさりの塩の店もよかった。あのブログは、ハズレがなかった」
ひばりは動けなかった。
「歩くようになったら、なんだか体の調子も良くなってね。今は週に三回出とる。行きたい店が、まだ二百軒ある」
老人は顔を上げた。
「おかげで、わしの老後は、悪くないもんになったよ」
ひばりはその場から動かなかった。老人が立ち上がって、礼を言って、歩いていったあとも動かなかった。ブログに反応はある。読まれている実感もある。更新すれば列ができる店もあった。だがひばりが見ていたのは数字だった。何人が読んだ、何人が来た、何件の反応があった。そしていくらの収入になった。自分の記事が誰かの暮らしまで変えていたことなど、ひばりは考えたこともなかった。
ひばりは、この先もブログを書くつもりでいた。予定表にも入っている。次は環七沿いの豚骨で、その次は前から気になっていた味噌の店だ。
行きたいという二百軒を回り終えれば、老人の次の一軒は、これからの記事から選ばれる。ひばりが書かなければ、老人の楽しみはそこで尽きる。
だからこそ、書き続けなければならない。怪人の相手をしている暇はない。
通りの向こうで、悲鳴が上がった。走ってくる人の流れが、こちらを避けて割れていく。誰かが「助けてくれ」と叫んだ。ひばりは動かず、鞄の持ち手を握り直した。
――だが。このまま放っておけば、これから書くはずの店も、いずれ潰される。潰されたらもう書けない。ひばりは悲鳴のする方へ歩き出した。見に行くだけ、そう自分に言い聞かせながら。
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現場は駅前の交差点だった。アオガッパが二十体近く。一昨日は十一体で手一杯だった。その倍の数が湧いている。
「前橋さん、下がってください!」
「まだ人がいます!」
「そこは後でいいですって!」
「よくないですよ!」
イエローが三体に囲まれ、そこへレッドが向かうと、今度はグリーンの背後が空いた。
「小岩さん、後ろ!」
「見えてる! でも手が回らない!」
一昨日と同じ崩れ方だった。
「星ひとつ」
ツターンが上から言っていた。信号機の支柱の天辺に、蔓の足を掛けている。
「そら、通行人にもつけてやろう。星なし。星なし。星ひとつ」
「なんの根拠があるんですか、それ!」
「余が見た。それで十分だ」
蔓の腕が横から来て、レッドを歩道の縁石まで吹き飛ばした。
「っ」
起き上がろうとして、視界の端に何かが入った。歩道の向こう、工事用のコーンの列の外側。黒いキャップの女が立っていた。変身していない。ただ、そこに立って、こちらを見ている。レッドは戦線から離れてそこまで走った。
「三田くん、どこ行くんですか!」
ホワイトが叫んだ。
「すぐ戻ります!」
コーンの前で止まった。肩で息をしていた。何を言うかは、決めていなかった。
「昼の店のスープ、記事の通りでした」
「は?」
背後で何かが崩れる音がした。ひばりはそちらへ顔を向けかけて、戻した。
「香りが先に来て、少し遅れて塩気が来るって書いてあって、本当にその通りでした」
「……それで?」
「いいブログでした」
レッドは面をつけたまま、深く頭を下げた。
「あのブログを邪魔しちゃいけないって、本当に思いました」
「何が言いたいんだよ」
「ほんとにそれだけ言いに来ました。それだけです」
顔を上げた。面の下で、息がまだ整っていない。
「俺たち、責任とか正義とか言ってたんですけど。あれ、たぶん宙に浮いた言葉でした。ガキが偉そうに掲げてただけかもしれないです。だから、それは言いません」
レッドは豚斬包丁を腕輪へ戻し、腕輪の帯の内側に挟んできた黒い腕輪を抜いて、差し出した。一昨日、地面から拾って、それから持ち歩いている。
「あのブログを読んで、あそこに載ってるラーメン屋だけでも守りたいって思ったんです」
ひばりが、腕輪を見下ろした。
「……規模が小さいな」
「そうですね。でも、それが本当に思ったことなので」
「三田くん! もうこっち無理、戻ってきて!」
グリーンの声が飛んだ。矢を番えたまま、後ろへ下がっている。
「行きます!」
レッドは腕輪をコーンの上に置き、両手を開いて豚斬包丁を呼び直し、走って戻っていった。
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置いていかれた腕輪が、コーンの上でわずかに揺れた。ひばりはそれをしばらく見ていた。交差点では、四人が押し込まれている。
「店の味は、進化する」
誰にともなく、そう言った。
「味を変える店もあれば、同じ味を守る店もある。守るのだって楽じゃない。粉が替われば、油を控えて合わせ直す。店主が腰をやって湯切りが甘くなれば、かえしを濃くして補う」
腕輪を取った。
「絶え間ない工夫がなければ作れない。この先の一杯を書くのも、私だ。潰されたら困るんだよ」
そして、食券を差し込んだ。
「マシマシチェンジ」




