第三杯目 麺好法師は許さない③
歩道の縁石に、四人が並んで座っている。二月の日暮れは早い。汗が引いていくにつれて、装甲の下に着ていたものが背中に貼りついて冷たくなった。誰も、しばらく口をきかなかった。
「……あの人、戻ってきますかね」
先に言ったのは千代太だった。膝の上でネクタイを解いて、それをまた締め直している。
「戻ってこないでしょ」
忍が即答した。膝に肘を置いたまま、顔も上げない。
「お仕事あるんだろ。てか戻ってこなくていいし、俺は」
「関内さん」
「いや、だってさ」
忍が地面の小石を蹴った。小石は縁石に当たって跳ね、足元へ戻ってきた。忍はそれをもう一度蹴った。
「俺、あの人に何かした? 何もしてないよね。それで親がどうとか言われて、なんであんな言われ方しなきゃなんねえのか今も分かんないんだけど。……別に、傷ついてないし。何も」
言いながら、声がだんだん平坦になっていった。
「私は」
乃絵が膝を抱えたまま言った。抱えた腕の上に顎を乗せて、車道の方を見ている。
「私が余計なこと言ったんだと思う。責任とか言っちゃったから」
「あれは正論でしょ」
「まあそうなんだけど、余計にまずいんだよね」
乃絵は自分の靴の先を見ていた。
「あの人は、自分の暮らしを自分で全部背負ってるんだよね。私、それがどういうことか、ちゃんとは分かってない。分かってないのに、責任とか言っちゃった」
「じゃあ、どうすればよかったんですか」
千代太が聞いた。
「分からないです。分かんないから困ってるんです」
乃絵はあっさりと言った。
千代太は少し黙ってから、また口を開いた。
「あの、俺、ちょっと分かる気がします」
三人がそちらを見た。千代太は視線が集まったことに驚いて、少し身を引いた。
「その、俺も、個人の数字がまずいときに、これは大事な仕事だからって別の仕事振られると、それはそうなんですけど、でも今それを言われても、っていうか、まあ自分が未達なのが悪くてそれくらい達成しておけよって話なのはわかるんですけど、そもそも……」
「あの、前橋さん、ゆっくりでいいですよ」
乃絵が言った。
「あっ……すみません」
千代太は一度息を吸った。
「大事なのは分かってるんです。分かってるのに、自分の生活が回らないってなると、頭が全部そっちに持っていかれるんですよ。そういうときに正しいことを言われると、責められてるみたいに聞こえるんです」
忍は膝の上で指を組み直した。千代太が続ける。
「ま、まあとにかくたぶん、あの人、今そういう状態なんじゃないかと」
忍が鼻で笑った。
「あんた、なんでそんな奴庇うわけ」
「別に庇ってはいないです」
「庇ってるでしょ」
「俺は、あの人がいないと勝てないと思ってるだけです。一応、社会人だから気持ちはわかるし」
言い切ったので、忍が黙った。千代太が自分で驚いたような顔をして、それから慌てて付け足した。
「あ、いえ、その、今日みたいになるので」
ジロウはその話をずっと聞いていた。
「俺、行ってみます」
三人の顔が、いっせいにこちらを向いた。
「え、目黒さんのとこ?」
「はい」
「無理でしょ。あの人、腕輪捨てて帰ったんだよ」
「無理かもしれないですけど」
「じゃあ何しに行くんだよ」
答えられなかった。何を言いに行くのか、まだ決めていなかった。
「三田くん」
立ち上がって引き上げる途中で、乃絵がジロウの袖を引いた。この前も同じことをされたが、今日の表情は違っていた。
「……お願いしていい?」
「目黒さんですか」
「うん」
乃絵は少し言い淀んだ。
「私が行くのが一番いいと思うんだけど。……たぶん、私が行ったら余計こじれるだろうから」
「そんなことは」
「あるよ。さっき、私ああいうこと言ったし」
「でも、間違ってないと思います」
「もし間違ってなくても、腹立つことはあるだろうから」
乃絵はそこで笑った。
「三田くんなら、たぶん私みたいな言い方しないと思う。だからお願い」
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翌日、街の状態はさらに悪化していた。朝の通学路で、星なしの男がバス停のベンチに腰を下ろすと、後から来た二人が圧をかけ、席をどかせた。学校でも似たようなことになっていた。
昇降口で、生徒たちが互いの頭上を見ていた。三つの者の周りには人が集まり、なしの者の周りからは人が引く。教師が「くだらんことをするな」と怒鳴ったが、その教師の頭の上にも星が一つしかなかったので、誰も従わなかった。ジロウの頭上には二つ、鷹志は三つあった。
「……なんか、気まずいな」
鷹志がそう言った。
「別に、俺は気にしてないけど。どうでもよくね?」
「そうじゃなくてさ。お前の方が絶対いい奴なのに、俺の方が多いのおかしいだろ」
「剣道の強さなんじゃないの」
「お前も大概強いじゃん。それにだとしたら畑岸がみっつなのはおかしいだろ」
鷹志は大柄なクラスメイトに指を指す。彼は吹奏楽部だった。
「ステゴロの強さかもしれないじゃん」
「そんなわけねえだろ。何なんだよこれはマジで」
「だから気にしなきゃいいだけだろ」
鷹志は自分の頭の上に手をやった。触れない。
「分かってても、見えると気になるんだよ。それが嫌なんだって」
昼休みには、教室の隅で泣いている女子がいた。星がなかった。ジロウはその日、三年の揉め事にも一年の面倒にも、一度も割って入れなかった。
割って入ろうにも、誰も相手の顔を見ていない。見ているのは、頭の上だった。
家に帰るまでの道で、ジロウはスマホを出した。個別のトークは、今もブロックされたままだ。名前のないグループの方に、あの三通が既読のつかないまま残っている。その下の空欄に、指を置いた。
『みんな困ってます』と打って、消した。責任だの、みんなのためだのと言われて腹を立てたのが、そもそもの発端である。『街が危ないです』まで打って、また消した。街が危ないことなど承知の上だろう。そのうえで戦いを拒否している。画面を伏せてポケットへ戻した。
家に着いて、飯を食って、風呂に入って、部屋に上がって机の前に座っても、うまい言い方は出てこなかった。自分は、ひばりのことを何も知らない。
知っているのは、名前と、年齢と、見た目くらいだ。昨日、ひばりは「二年かけてやっと食えるようになった」と言った。その二年間にどんな苦労があったのかをジロウは一つも知らない。そんな状態で説得してもさらに怒らせるだけだろうと思った。
ジロウはスマホを取り直して、「麺好法師の徒然啜」を開いた。朝の四時まで読んだ。記事は二年分で五百を超えていて、一晩では到底読みきれない。最初の記事から、読めるだけ読んだ。
最初の記事は二年前で、三百字ほどしかない。文章も硬かったが、書いてあることは今と同じだった。麺の加水、スープの温度、店主の所作。途中から、文章が変わっていく。硬さが取れて、リズムが出てくる。同じことを書いているのに、読んでいると腹が減ってくる。
ジロウはそれが不思議だった。派手なことは何も書いていない。「絶品」も「悶絶」も「神」も出てこない。飾り気のない、事実を端的に並べた文章。なのに、食べたくなる。
家系の記事があった。魁星のような店の記事があった。豚骨、味噌、塩、中華そば、つけ麺。三十年やっている町の中華そば屋の記事の隣に、開店二週間の淡麗系の記事が並んでいた。読んでいるうちに、記事の並びに気づいた。同じ系統が続かないのだ。
家系の次は塩、その次は味噌、その次は町の中華そば。わざとかどうかは分からないが、どの系統の記事も同じ密度で並んでいる。魁星のような店の記事が特別に多いわけでもなかった。
ジロウは魁星の記事を探してみたが、なかった。四日前に食べたばかりなので当然と言えば当然だが、もしかしたら過去に来てその際に書いていたのかもしれない。そう思って日付を遡ってみたが、この二年で一度も出てきていなかった。
ジロウは魁星の記事を探してみたがなかった。あの夜は食べ終えてすぐに戦いになった。まだ書けていなくて当然だ。三十本ほど読んだところで、ジロウはもう一つ気づいた。三十本ほど読んだところで、ジロウはもう一つ気づいた。
けなしている記事が一本もなかった。味が薄いとも、値段が高いとも、店員の態度が悪いとも書いていない。皮肉すらない。気に入らなかった店はそもそも書かないのだろう。ジロウはそう思った。
読み進めるうちに、同じ店の名前が二度出てきた。駅から三つ離れた町の、塩ラーメンの店だった。一本は去年の二月で、もう一本は一昨年の二月だった。
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その日、ジロウはその店に行った。土曜で部活は午後からなので、朝のうちに家を出た。十時過ぎに着くと既に十人以上が並んでいた。開店の十一時に券売機に札を入れ、塩ラーメンのボタンを押した。丼が置かれて、ジロウはレンゲを取った。
記事にそう書いてあったからだ。まずスープだけを啜る、と。
一口飲んで、驚いた。記事の通りだった。香りが先に来て、少し遅れて塩気が来る。麺を持ち上げる。少し硬めで、噛むと途中で切れる。これも書いてあった。麺を三口食べたところで、ジロウはもう一度スープを飲んだ。
さっきより塩気がはっきりしている。少し冷めたせいだろう。ブログの記述を思い出す。
熱いうちは香りが前に出て、塩は奥に控えている。少し冷めると、角の取れた丸い塩気が、香りの下から上がってくる。最初の一口で薄いと感じた人も、そこまで待ってから決めてほしい。
読んだときは、意味が分からなかった。今は分かる。ジロウは丼の中身を半分ほど減らしたところで、箸を止めた。去年の記事と、一昨年の記事。どちらも、この一杯のことを書いている。
味が変わっていないかを、毎年確かめに来ているのだろう。そこまで考えたところで、店の引き戸が開いた。
「いらっしゃい」
入ってきたのは、黒いキャップの女だった。
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ジロウは丼に顔を伏せたが、すぐ意味がないと気づいた。カウンターだけの小さな店である。だがひばりはこちらを見なかった。
券売機の前に立ち、ボタンを押して券を取った。
厨房を見ながら、ジロウの二つ隣の席に着く。鞄を膝に置き、上着は脱がない。座った瞬間に、卓上の胡椒とラー油の位置を目で追っていた。
そこから、ひばりは動かなかった。厨房を見ている。寸胴を見て、店主の手を見て、麺を上げるところを見ている。丼が置かれて、ひばりはまず湯気を見た。顔を近づけるのではない。少し引いて、上がり方を見ている。それからレンゲを取って、スープだけを啜った。
スープを二口啜って、レンゲを置いた。それから箸で麺を一本だけ持ち上げて光にかざし、丼へ戻した。厨房で湯切りの音がするたび、そちらへ目が動いた。
「……そこまで、やるんですか」
言ってから、しまったと思った。ひばりがこちらを見て、露骨にため息をついた。
「すみません、その」
「尾けてきたのか」
「違います。記事を読んで、食べに来ました」
ひばりの眉がわずかに動いた。目は、もう厨房へ戻っている。
「ふぅん、読んだのか」
「読めるだけ、読みました。二年分の最初から」
ひばりはそれには何も言わず、代わりにさっきの問いに答えた。
「当たり前だ」
「え」
「そこまでやるかと聞いただろう。当たり前だと言っている」
ひばりは箸を取り直した。
「この一杯は作り手のすべてだ」
「すべて……」
「スープを仕込むのに何時間かかると思う。麺の加水を決めるのに、何回試すと思う。今日この一杯が出るまでにどれだけの努力があったか」
厨房の方を、顎で示した。店主は鍋の前から動かない。
「それを、ひと口啜っただけで分かった気になって書くのは、作った人間に失礼だ。だから、出てくるまでの手つきから最後のひと口まで、全部見てから書く。そんなことは当たり前なんだよ」
ジロウは聞こうかどうか迷って、聞いた。
「あの、魁星のことは書かないんですか」
ひばりの箸が止まった。持ち上げかけた麺が、丼へ落ちた。
「……なぜそれを聞く」
「探したんですけど、なかったので」
ひばりは少しのあいだ黙っていた。厨房で湯切りの音が二回した。
「書くほどじゃない」
「え」
「あの店には四回行った。一昨年に一度、去年に二度、それとあの日だ」
ひばりが箸を丼の縁へ渡した。
「悪い店ではない。豚は良かった。あの日のは特に良かった。まあ、化け物の肉だったらしいがな」
「じゃあ」
「それだけだ」
ジロウが次の言葉を探しているうちに、ひばりは続けた。
「スープは平凡だ。麺は悪くないが、この辺の、似た系統の店なら、基本的には同じ粉を使っている。それ以上の工夫を感じられなかった。野菜の茹で加減は日によってばらつく。全体として、よくあるインスパイア、という印象で、わざわざ書くほどのものがない」
ジロウは返事に困った。あの店で、自分は汗だくになって食べた。旨いと思った。少なくとも、この人が言うような店だとは思わなかった。
「……でも、俺、旨かったです」
「そうだろうな」
否定されなかった。ジロウは拍子抜けして、箸を持ったまま黙った。
「旨いのは確かだ。だが記事にするなら、この辺の同じ系統の店と並べて、魁星にしかないものを書かなきゃならない。それがまだ分かっていない」
それきり、ひばりは黙って食べ始めた。会話はそれで途切れてしまった。




