第三杯目 麺好法師は許さない①
朝の六時半に、ひばりは家を出る。七時二分の電車に乗って、四駅。降りてから七分歩く。着くのは七時二十分ごろで、店の開店は十一時だった。四時間近く早いが、この店はそうしないと入れない。
商店街の外れの、看板も出していない中華そば屋である。カウンター七席。店主は一人。十一時に開けて、麺がなくなれば閉める。日によっては十二時半に閉まる。ひばりが着いたとき、先客は二人だった。
折り畳みの椅子を持参した男が一人と、シャッターの前に立ったままの若い男が一人。三人とも口をきかない。二月である。シャッターの鉄板は触れないほど冷えていて、吐いた息が壁づたいに上がっていく。爪先の感覚は、一時間もすればなくなる。
四時間近く前から並ぶ人間が自分以外にもいることに、ひばりはもう驚かなくなっていた。どこかで評判を読んで来たのだろう。ひばりは壁に背を預け、鞄からノートを出す。前回来たのは去年の四月だ。
そのときの記録を読み返す。開店時の待ち客数、湯気の立ち方、丼が置かれた位置、最初のスープの温度。数字と短い単語ばかりで、他人が読んでも意味は分からない。
麺、加水低め。前回よりわずかに硬い。
スープ、香りの立ち上がりが早い。表面の油、薄い。
去年の記録と今日の一杯を突き合わせるのが、ひばりのやり方だった。九時を回る頃には、列が八人になっている。十時半で十六人。ひばりは列を離れずに半身を出して、店を撮る。看板がないので、暖簾の出る前の外観を押さえておく。これも記録だ。
十一時。暖簾が出る。ひばりは三番目だった。券売機はない。この店は口頭で注文を取る。
「中華そばで」
「あいよ」
注文を通してから、ひばりは丼を撮ってもいいかと聞いた。店主が顎で頷く。丼が出るまでのあいだ、ひばりは厨房を見ていた。寸胴の位置。玉じゃくしの持ち方。麺を上げるときの腕の高さ。麺箱の印字。去年と違う。製麺所を替えたのだろう。丼が置かれて、湯気がまっすぐ上がる。正面から一枚撮ってから、ひばりはレンゲを取り、スープだけを啜った。
麺より先に、スープを飲むのがマイルールだ。麺を食べてしまうと、麺の小麦がスープの印象を上書きしてしまうからだ。一口。──香りが、去年より控えめだ。表面の油が薄くなっている。
理由は、麺を啜って分かった。粉が替わって、小麦の香りが強くなっている。その分、油を控えてある。麺とスープを一緒に啜ると、去年の一杯にかなり近い。食べ終わるまで、十一分かかった。
途中で二度、箸を止めている。一度目は五口目。麺の切れ方を見るために、持ち上げた一本を光にかざした。二度目は九分過ぎで、スープの温度が下がってからの香りを確かめるためだった。
熱いうちは、舌が熱さに負けて分からない味がある。スープが冷めるにつれて、それが分かるようになる。熱いうちだからこそ旨い店もあれば、冷めてからも旨い店もある。この店は、去年も今も後者だった。
「ごちそうさまでした」
店を出て、ひばりは通りの端でノートを開いた。
麺、粉が替わった。香り強い。
スープ、油控えめ。麺の補正。
合わせると、去年に近い。
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帰宅は十四時過ぎだった。ひばりの部屋は生活感にひどく欠けていた。冷蔵庫にはペットボトルの水と、いつのものか分からない調味料が二本。ベッドと机とパソコン。壁一面に、背表紙の色が揃わない本が積んである。机に向かって、ひばりはまず写真を選んだ。
外観は、暖簾の出る前と後で三枚。中で撮ったのは、丼の正面と、麺を持ち上げたところの二枚だけだ。記事に使うのは、そのうち三枚だった。次にノートを開いて、記録を書き起こす。書き起こしてしまえば記事化は速い。二千五百字を一時間と少しで打ち終える。
時間がかかるのは、そのあとだ。打ち終えた記事の営業時間、定休日、メニュー名の正式な表記、価格を、店先でノートに控えたものと一つずつ照らし合わせる。
記事の頭に番号を振った。二〇二六年・十六杯目。二十三時二十分に公開ボタンを押した。そこで初めて、ひばりは椅子の背にもたれた。天井を見る。明日は別の店だ。開店が十時なので、六時に出る。
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三日前の夜から、その生活が止まっていた。あの日は朝に一軒回り、夕方に魁星でラーメンを食べた。そこまではいつも通りだった。その夜、得体の知れない腕輪を着けて、怪物と二度戦わされた。次の日から回るはずだった店が、二軒あったのに、だ。
一つは去年記事にした開店二年目の家系の店で、一年でどう変わったかを見に行くつもりだった。もう一つは開店から一か月経ったばかりの淡麗系だ。どちらにも行けなかった。
ひばりが更新を三日空けたのは、二年でこれが初めてだった。四日目の午後、ひばりは机に向かい、あの日の朝に回った店の記事を書こうとしたが、書けなかった。
いつも通りつけたノートを読み返しても、その一杯の味が戻ってこない。思い出そうとすると、その夜の戦いが先に思い起こされる。
ひばりはパソコンを閉じて、スマホを見た。名前のついていないグループに、三通溜まっている。
『三田です』
『すみません、また怪人出ました』
『目黒さん、今日どこにいますか』
個別のトークはブロックしたままなので、グループの方にひばり宛ての連絡を寄越してくる。ひばりは既読をつけずに、画面を閉じた。




