ねえとれ 5
それから二時間経っても、待ち構えていたジェニ、ベルエル、スズの三人の前にテツクダキが現れることはなかった。
ジェニはそれを、「最悪な状況だ……」と言った。
おそらく縄張り主であるテツクダキのオスを殺したことで、いずれケタマ・オリマの注意を引くことになることになるとは思っていた。
だとしても、その後オスを探してやって来るであろうメスもベルエルの腹の中に収めてさえしまえば、冠付きに縄張りが荒らされたと気づかれる前に残り三つの山を越えてしまえたかもしれない。
しかし、そのメスが現れなかったという事実が、ジェニの作戦がどちらにせよ上手くいかないことを示していた。
「メスは、動けないのかもしれない……」
「例えばなんだ、他の野獣に襲われたってことか?」
ベルエルが言うと、ジェニは首を横に振った。
「それはわからない。もしかすると、子供がいる可能性もあるし……そんなことより」
と、ジェニは空を見上げた。
木々の隙間から見える空は青く、揺れる葉の影は西に向かって伸びている。
数時間前に南の方角にあった陽の光は、東側に移動しているようだ。
だが。
「まだ近い、か……」
ジェニは呟いて、ひとつため息をこぼした。
「何が近い?」
「陽の光が、さ。どうやら夜が来るのはまだ先みたいだね」
遠い目で言うジェニの横顔を見ながら、ベルエルは「ふーん」と鼻を鳴らした。
「で、夜を待つ理由は?」
「その時が来れば、冠付きは眠るからさ。正確にはどこかに潜んで姿を現さなくなる。あいつらに決まった寝床でもあるならそれでいくらか安心できるけど、そうじゃないしね。結局ボクたちは夜を待つしか無いのさ。でも……」
どうやら陽の光はボクの思い通りには動いてくれないみたいだ。
ジェニが口にするよりも先に、「どうしてだよ」とベルエルが身振りで言う。
「その冠付きとかってのがまだ気づいてないのは確かなんだから、とっとと縄張りを抜ければいいだろ。いつまでもこうして同じ場所に居続けるほうがマズいんじゃないか?」
まさか、メスが来るまでずっと動かないなんて言わないよな。
ベルエルは念を押すように付け加えた。
「できればね、ボクだってそうしたい。でも、そうもいかないんだよ……」
メスが現れないということは、メスに動けない理由がある可能性があるということ。
それは子供が腹の中にいるからか、もしくは一緒にいるか。それとも他の野獣に襲われたからかもしれない。
しかし。
それがどちらにせよ、「近くにケタマ・オリマがいるってことに違いはない」。
ジェニが言うと、ベルエルは肩をすくめ、そばで眠るネーの顔をずっと見ているばかりだったスズも目線を上げた。
「ど……どうして……?」
か細い声で言うスズをジェニはちらと見た。
「他の野獣が襲ったっていうんなら、それを管理人として見過ごすわけにはいかないからさ。もしその野獣が迷い込んだのなら、餌にするためケタマ・オリマは捕らえに来るはず。それと、子供がいるならっていうのはもう話しただろ」
「だ、だったらなおさら早く動いたほうがいいんじゃ……」
地面に手を付き、立ち上がるような仕草をみせたスズ。
そこに「だから」とジェニが嘆息する。
「そうはいかないんだよ」
「なんでだ。いい加減話せよ」
ベルエルがせっつくと、ジェニはまた嘆息した。
「ケタマ・オリマは、いつ、どこから現れるか検討もつかないんだ。それどころか、姿だってその全てが明らかなってるってわけじゃない。追われる方がよっぽど危険ってことさ」
相変わらず遠くを見ているような力のない顔でジェニが言うと、「わけがわからないな」とベルエルが鼻息を漏らす。
「だって、お前は前に出くわしたことがあるんだろ? そう言ってたぞ」
その通りだ。
ジェニは頷いたが、「でも」。
「あれがケタマ・オリマの全部じゃなかったんだ。当時のボクは若かったからね、あれを解明できないのは皆が弱いからだと思っていた。そこらの戦士に比べれば抜きに出てるという自負もあったし、だからボクはケタマ・オリマを明らかにしてやろうと思ったのさ」
まったく、バカだったよ。と、ジェニは自嘲気味に笑った。
そんなジェニを見つめる二人の目は、彼女を憐れむどころか続きを期待しているようだ。
ジェニは疲れたようにまた小さく笑った。
「ケタマ・オリマ……。
あれは、四十二本の脚と十七個の瞳と六本の尾を持つ獣だといわれている。いや、正確には体の部位がその数だけ確認されている獣だよ。
こんなふうに言えばもうわかると思うけど、ケタマ・オリマは異様に大きい……というよりも、長いって言ったほうがいいのかな。
だから、ケタマ・オリマをよく知らない人だったり、ここが冠付きの縄張りだからといって緊張しすぎている人みたいな、周りがよく見えていない連中はあれと気づかない内に遭遇しているかもしれない。
視界いっぱいでも足りないくらいの巨体に加えて、ケタマ・オリマの気配は木々のそれとほとんど変わらないんだ。気づくことができれば"居る"ってことになるし、気づけなければ"居なかった"。未だにそういう怪奇現象みたいな扱いをされる……」
ジェニがケタマ・オリマと出会ったのは、前回よりもずっと前の人生、まだ世界を気にも留めず輪の内側での冒険に明け暮れている頃だった。
当時ケタマ・オリマは冠付きとは呼ばれておらず、生態も定かではなかった。
しかし、"四十二本の脚と十七個の瞳と六本の尾を持つ獣"という情報だけがは出回っていて、実際にそれを見たという者の話もあるにはあったが、幾つも種類があり、どれも信憑性に欠けていた。
やれ四十二という数は六本脚の獣の群れのことであるとか、実は二十六本の脚と百を超える無数の瞳であり尾は無いだとか、見上げるほどの巨体で目視しきれないとか。
そういうデマを信じた連中が、無数の木々が生えている【明日山】という空間にケタマ・オリマという姿を妄想しふれ回ったことで、さらにあれの正体は掴みどころのないものとなっていき。
だからむしろその正体を暴こうと、腕試しに【明日山】に入り込もうという戦士は多かった。
ジェニも同じだ。
当時ジェニは、より高度な経験値を積む良い格好の機会と捉え、ケタマ・オリマの正体をはっきりさせることでひとつ名誉でも頂こうと考えていて。
ならば単独で、あれの正体を突き止めようと【明日山】に入った。
正体不明ならばアンノウンと括られるはずが、名前はきちんと与えられているあたり、この噂は本当にただの噂なのではないかという思いもあり、そもそもケタマ・オリマという存在を疑っている節もあり。
それも含めて、はっきりさせようという魂胆だった。
そこで愚かな若いジェニは、ケタマ・オリマについて囁かれる数少ない共通事項である"ハクロウノタテガミ"を狙うという事実を確かめるため、【明日山】で見つかるハクロウノタテガミを幾つも採取し、そのまま山に籠もってあれが襲ってくるのを待つことにした。
だが、一日経ってもケタマ・オリマは現れず、朧のような噂だけの獣よりも先に実際の野獣に襲われたジェニは、増強剤の原料であるハクロウノタテガミの力をもって、襲ってきた野獣を本来の半分の苦労で殺す。
それがきっかけだったと今ならば断言できる。
軽度の傷と体力を回復させるために身を潜めていたジェニの前に、あれは突如"感じられた"。
芳ばしくて甘い、まるで焼き菓子のような香り。
空腹のための錯覚か。いや、違う。
次の瞬間、奇妙な視線を感じて警戒するジェニを、それまで無かった熟れた赤い果実のような鈍い色合いの球体が複数木々の間、茂みの奥から見ていた。
一つ、二つ、三つ、四つ。
自然とその数を数える。
すると果実のそばで蠢く木の枝でも幹でもない何かが、一本、二本、三本。脚だ。
そうやって数を数えるのと同じ拍子で呼吸が弾んでいた。殺される、と肌で感じていたのだろう。
そして自分のものではない別の呼吸を複数察知したのと同時に、やられた。
僅か十数秒ほどの出来事だ。
両腕、両足から先に奪われ、そして胴体は、後にあれが飼っている野獣の餌にされた。
この経験で、ジェニはどうしてあれの"口"の数だけが伝わっていないのかを知った。
通常ならば、人生に二度目はない。
しかし、それを幾つも経験できるジェニは、恐怖よりもその当時の醜さや弱さを愚かにも、悔しい、と感じていた。
だからジェニは、またしてもケタマ・オリマに挑む。
一度、二度、何度死んだかは覚えていない。
一太刀浴びせる余裕ができたのはたぶん五度を越えたあたりからだ。その上で三分以上生き残るのにどれくらい掛かったことか。
毎度同じような殺され方をしながら、ジェニはケタマ・オリマの脚や瞳がどうやって数えられていったのかを理解した。
「……だからたぶん、部位の数を数えたのはプライアだったんだ。最終的にボクが数えたのは、四十四本の脚と二十個くらいの瞳と、尾は一本しか見つからなかったよ。わざわざ学会に報告していないから、常識にはなってないけどね」
全く意味のない数字さ。
ふう、とジェニは息を吐き、「そうだ」と二人に目線を合わせた。
「口の数は五つあったよ。牙じゃなくて、ザラザラした平たい歯が生えていた」
まったく、懐かしい話だよ。
変に顔を歪ませて言ったジェニに、思わずといった様子でスズが「君って……」と声を漏らしたが、すぐに口を噤んだ。
「なんだよ。言いたいことがあるなら言えばいいだろ。まさか、殴られて気まずいとか考えてないだろうね?」
ジェニが言うと、スズはわざとらしく視線を逸し、「いや……」となんとも気まずそうに返事をした。
逸れた視線は、あの時の平手打ちで歪んで駄目になった仮面の収められた鞄に向けられている。
ジェニは、ハハ、と声にして笑った。
「確かにね、オマエのしたことは最低さ。でももうやってしまったことだからね、仕方ないともいえる。もしもの時はボクとオマエと、たぶんネーも死ぬ。それだけだよ」
あくまでも朗らかに、ジェニは言った。
その意図が伝わったのか、スズは絶句し、顔を伏せてしまった。
そんな彼女が晒す頭頂部を見つめ、ジェニは密かに微笑み直す。
「……さて、と。そういうことだから、頼むよ。ベルエル」
「ん? 何をだ?」
オマエが"的"だ。
「まと? おれが?」
「そうさ。その内にやって来るケタマ・オリマは、間違いなくオマエを狙う。なにせその体には、"あれの"テツクダキのコンセキがたっぷり染み込んでいるだろうからね」
肩をすくめる仕草も口元も歪んでおどけていたが、そう言ったジェニの目はどこか冷めていて笑みは窺えない。
だから続けざまに吐き出る、「きっと大丈夫」、という言葉の意味も希薄に感じられる。
結局最低だ、という自責の念がジェニから自信を奪っていた。
「なるほどね。で、お前たちはどうする?」
「ボクたちは……、後方援護に回るよ。だから、よく耳を澄ませておいてくれ」
なるほどね、とまた言ってベルエルは頷いた。
「じゃあ、今回のは前よりも力が湧くやつにしてくれよ。たぶんその方がやる気も出る」
「ああ、任せておいてくれ」
言ってジェニは、ターの首の部分を強く握り締めた――。
◯
まだ陽の光は近く、空は青い。
その分木々や葉は温められていて、汗を吹き出し始めた土と、彼らから絞り出された水気が薄い靄となって周囲を濁し始めていた。そんな彼らの苦労を吸った風は冷たく。残されて漂う空気は生ぬるい。
周囲には青い香りが立ち込め。じっとりと、肌を自分のものと植物たちの汗が濡らしていた。
衣服はそれらに糊付けされた分厚い皮膚のように纏わり付き、鬱陶しく窮屈だろう。
だが、それでいい。
今この時に無駄な気配を抑えてくれるのなら、その気持ち悪さも善意である。
あれからまたニ時間ほどが経っていた。
樹上の葉に見を潜めるジェニとスズの鼻は、ついに芳ばしく甘い焼き菓子のような匂いを感じ取る。




