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ねえとれ 6


 一つ、二つ、三つ、四つ。

 嗅覚が異変を感じるのと同時に、それらは目に付くようになった。

 いったいいつからそこにあっただろうか。

 一つずつ星が見つかるように、その赤い果実のようなものは現れた。


 漂う甘い香りが焼き菓子のようで、たとえ果実から発されるようなものでなくとも、きっと誰しもがそれのせいだと認識してしまうだろう。

 すると腹が減っていようといまいと、舌は勝手に味を想像する。

 ここが輪の内側でなければ、あれを口にしたくて手を伸ばしてしまうかもしれない。

 

 だが、ここを輪の内側だと理解していればこそ、突如目に付くようになった赤い果実は警戒に値する謎の物体と思えるはずだ。

 きっと脳は不動と観察を選択する。


 そうして敏感になった感覚は、茂みをかき分けるガサガサという音を察知する。

 野獣だ、と体にはさらに力が入り、張り詰める。気配を殺そうと息を潜める。

 あの赤い果実を狙ってきたのだろうか。


 しかし、あれはなんだ。


 風に揺れて前後左右する草葉の向こうに、上下する何かが、一本、二本、三本。

 獣の脚にしては細すぎる。何よりまず、肉や皮の分厚さが窺えない。

 爪、だろうか。いや、だとしたらあまりにも大きすぎる。小人の背丈よりもあるあんな爪、その持ち主はもっとずっと巨大な獣に違いない。

 上下する動きは、まるで巨獣の指遊びのように見えるだろう。


 気がつけば、心には不安が滲んでいる。


 いったいどれほどの大きさなのだろうか。単なる大型の野獣なんかの比ではない。

 なぜ今の今まで気づけなかったのか。

 疑問を孕ませ巡らせる視線に、四本、五本、六本。弾む呼吸に合わせていくつも同じものが映り込み。

 そして、自分が囲まれた状況にあることを知る。


 ドス、ドス、と土に刺さる爪音は、食事を前にナイフやフォークで机を叩く悪い行儀のようにも思える。

 もしかして、獲物は。

 気づいたその耳に触れる最後の一息は、いわば閉じかけの残響なのだ。


 はむっ。


 間抜けな音が鳴り。

 相対して轟く絶叫は、今回起こらない。


          ◯


『いいかい、ベルエル。最も重要なのは初めの一撃を躱すってことで、それが上手くいかなかった場合、それこそ打つ手が失くなるだろうね』

 

 とジェニは言った。


『まず、あれの初撃は必ず口で行われる。

 つまり、その前の行動は全て、最初の一撃を成功させるための手段でしかない。どれだけ些細な異変も気にしなくていいってことさ。

 だからわかるだろ? オマエは、ケタマ・オリマの口の位置を把握しなくちゃいけない。けど、大まかにでもあれの姿を知っていればそれは問題じゃないよ』


 その姿のことを、ジェニは例えてブレーズ式突刺甲を指差す。

 

『たくさん脚のある虫、と言ってもいいんだけどね。ムカデとか、あるいは多足竜とかさ。でも、ケタマ・オリマをそういう当たり前の生き物と同じだと思ってはいけない。むしろあれは、そういう人の認識すらも利用している獣だって考えてほしいんだ。

 

 例えばムカデとか多足竜でも、進行方向ってやつは頭の付いている方が基準になるだろ? 前に進むにせよ、後ろに進むにせよさ。

 でも、ケタマ・オリマは違う。前後だけじゃなく真横にも移動するし、鎌首を上げた状態で走ったり、捻れて上下すら関係なかったりもするんだ。

 むしろ変形すると言ってもいい。やっぱり、虫や多足竜とは違うんだ。


 だから、その管の部分さ。伸び縮みするそれは、ケタマ・オリマの姿によく似ているし。そこに鉤状の針みたいな脚と無数の触手、その先に幾つもの果実っぽい瞳がついてさえいればほとんどケタマ・オリマだって言ってもいいくらいだ。

 それを想像してもらった上で、口の位置だけど……』


 これも例えて、ジェニは両腕を横に伸ばし両手の指をそれぞれ三本と二本立てて見せた。


『こうなってる。これに一本足すと、六本だ。つまり。

 言い伝えられている六本の尾ってのは、五つの口と一本の尾のことだったんだ……。まったく、伝承ってのは信用ならないね。

 きっとこの真実を正確に伝えなかったプライアは相当な面倒くさがりというか、人のことを言えないけど、あまり人に親切な性格じゃなかった。あの五つの口を見て、ボクはそう思ったよ。


 でもまあ、そういうことさ。

 あれの攻撃主体である口は、胴体の末端にある。ってことは、幾つも見つかる赤い果実や、周囲を蠢く爪先は……』


 そう言いつつジェニは徐にベルエルに近付き、その首元にそっと腕を回した。


『こんなふうにオマエには見えるはずだよ』


          ◯


 その時白い人型は、空を見上げていた。

 しかし体はうつ伏せに、だから首だけが半回転して真上を向いている状態だ。


 元々は誰かのお気に入りだったはずの人形が何らかの理由で道端に捨てられ、挙げ句行き交う人々に蹴飛ばされてそうなってしまったように。

 それにしても、こんな表情のない人形をいったい誰が好き好んで持ち歩いていたのだろうか。

 瞬きひとつせずにじっと空を見上げている首の捻れた白い人形には、生気というものがまるで感じられない。


 そのせいか、追撃は行われず。

 白い人形の見つめる先で宙に浮いてゆらゆらと蠢く五つの口は、空振りした向きを下方に変えて、地面に伏せているのかひっくり返っているのかよくわからないものを向いていた。

 

 周囲に巡らせた幾つもの瞳でじっくり観察していたはずなのに、突如倒れて動かなくなったものが生き物ではないのかもしれないと迷っているのかもしれない。

 三つの口は何かを探すように周囲へとまた向きを変えてクネクネと動き、残る二つの口はまだ白い人型を向いてはいても、剥き出しになった唇のような分厚い歯茎で黄ばんだ歯を隠し、それをモゴモゴと歪ませて遊ばせ始めた。


 でも、おかしい。さっき見ていた時には二本足で立っていたはずなのに。

 十数秒間の探索じみた動きから一変して再び三つの口が白い人形に向きを戻す様子には、どういうことか、という意志が窺える。


 そんな口の行動に次いで、木々や藪の向こうに見えていた赤い瞳がおかしな白い人形をもっとよく見ようと近付いてくると。木々は悲鳴を上げ、空を隠していた樹冠が慌てふためいて騒ぎ始めた。


 それまで静かだった山が異様な獣一体の挙動で突如喧しくなる様は、ここでは冠付きという存在が絶対であるのだと示しているかのようだ。

 ギシギシ、バキボキ、と音を立てて倒れる木々。


 突如、騒然とし始めた環境はここに居座る王がこれから行う業から目を背けようとして駆け回る雑踏か。それとも逃げ惑う民を踏み潰す無情の獣の足音か。

 少なくとも、面白がって集まる野次馬の気配とは感じられない。


 そうして晒された冠付き"ケタマ・オリマ"の姿は、確かにジェニの言う通り無数の節がついた管に脚と毛が生えたようなものだ。

 強いて挙げる違いもなく、だからそれが本当に生き物なのかと疑ってしまう。

 

 まず頭部がない。

 近くで見たとてその赤い果実のようなものを瞳とは思えない。

 唯一生物らしく思える鉤状に曲がった脚にもまるで躍動というものが感じられず、決められた動きをただ繰り返す玩具を彷彿とさせる。

 しかしそんな脚の動きに反して、クネクネと自在に蠢く五本の口とそれに混じって不規則に揺れる細長い滑らかな質感の尾は舌のように生物的だ。


 赤い瞳を除き、全身は湿った木のような奥深い艶をもつ濃淡のはっきりした茶色。

 生えている長い体毛のような無数の触手は、薄灰色をしているとはいえ風景に混じって特段の色が感じられず、そのせいで赤い瞳は中に浮いているかのようにも見える。

 

 一つ、二つ、三つ、四つ。

 一本、二本、三本、四本。

 

 白い人形の周囲に集まってくるケタマ・オリマの部位は、折り重なり、とぐろを巻いていく。

 いずれ白い人形の姿は覆い隠されて見えなくなり。

 そこには古くからある巨木のような姿へと変貌した獣の姿があった。


 自ら均した木々の上に立つ一本。誘惑の赤い実を付けた身勝手な巨木。

 それを外から見るのは初めてだった。


 ジェニはスズに目配せをし、「準備はいいかい?」と言った。

 込めた二発の弾丸を確認して砲身を戻し、スズはジウを構えて短く頷いた。

 

 ギ、ギ、と軋む音を鳴らし幹と化した体を徐々に萎めていくケタマ・オリマ。

 それを眺めていた数秒間は、機を図るというよりもただの覚悟の時間だった。

 そして数秒後。


 ジェニはターの全ての弦を掻き、強く握り締めた左手を一気に首の根本まで滑らせた。それを二度、三度と。

 低音から高音へと急上昇する音の連続は、音域の限界を繰り返しているだけにも関わらず延々と空の果てを目指すかのように響き。


 音に反応し、蠢く巨木になる赤い実が増えていた。

 

 多編成曲第一番足跡に立つ。

 そう名付けようと決めたのは、たった今だった。


 幾度も自分を死なせ、その都度生命を与えてきた伝承の獣。

 数百年の時を経て、自らが捧げたよりもずっと多くの生命を捕らえてきたはずなのに、その姿はあの頃と変わらない。


 出現の仕方から噛み付く初撃、それが上手くいかずとも獲物が囲われているのなら巨木と化す行動もまるで。

 長い時の成長というものが窺えないケタマ・オリマという存在は、同じく長い時を経てなお姿が変わらない自分自身と同じだと思えた。


 それを懐かしむというのは違うだろう。

 わかっていても敵わない。

 過去、叩きつけられた現実に諦観し、己の非力さを知ったという思いが単純な懐古とさせないのだ。


 ターに押し付けられるジェニの指先は、その頃を思い返すかのように五つか六つの和音を表現し、繰り返され。

 その上がり下がりを繰り返す旋律は終わりのない階段を進み続けているかのようだ。

 しかしそれは上っているのか下りているのかもわからない。

 今は傍観者であるにも関わらず、巨木の内側で締め付けられるような窮屈さがジェニを襲う。


 額に滲む汗、出始めには見えそうだった旋律が霞の如く消え、速度を増し乱暴に掻き鳴らされる音が絶叫となり始めたその時。


 巨木の隙間の一箇所から黄色の煙が筋となって吹き出す。

 

「合図だ……っ」


 スズの期待に満ちた声がし、ジェニが向けたそこで彼女はジウを構えたまま前方の蠢く巨木を見つめていた。

 さっきまで落ち込んでいたのが嘘のようにしっかりとした目だ。


 すると、途端にジェニの汗が止んだ。

 まるで悪夢から醒めたかのように、体から違和感が消えて身軽になったのを感じ、ターを掻き鳴らすジェニの手も止まった。


「まだ、待つ……?」


 スズの質問とは関係なく、ジェニは首を横に振る。

 その顔には微笑が浮かんでいた。そして。

 仕切り直しに振り下ろされた右手が弾き出す和音の散らばりに合わせ、声を上げた。


「撃て、スズっ」


 直後。パンッ、パンッ、と軽快なジウ声が二発続けて響き、その口から飛び出した二発の弾丸は赤い尾を引いて一直線に蠢く巨木へと向かっていく。

 散り散りになって宙を走る音と相まってそれは流星が如く。

 

 赤い果実のようなケタマ・オリマの瞳もその異常に気づいた様子だったが、もう遅い。

 着弾したジリーは一瞬強く発光し、火花を散らした。だが。


 ケタマ・オリマの巨大な体においてその火花はあまりにも小さく、火の粉が幾つかの触覚の先を赤く灯したとてそれも些細なことのように見える。

 少し体を捩れば簡単に消えてしまいそうな微小な灯火だ。


 そして、その通り。

 ケタマ・オリマはジリーが触れた箇所を揉むように蠢き、太い胴体に押しつぶされて着火した触覚は見えなくなってしまった。


「次っ!」


 ジェニが声を張り上げ、即座に撃ち込まれるまた二発分の弾丸に合わせ、奏でられる旋律も動き出す。


 八本の弦を五本の指で器用に押さえ、その都度掻き鳴らされる和音の余韻は短く、しっかりと結びついて重なり合う音は勇ましい大軍の行進のようだ。

 規則正しい拍子に乗って音は今、ひとまとまりになってケタマ・オリマへと進行していく。

 

 その錯覚が頭の無い獣にも届いたのだろう。


 軋む音を立て、巨木が動き出す。

 元より根のない巨木を運ぶのは、最早見慣れたあの鈎状の脚だ。

 無数にひしめき合うそれが地面を這うようにして二人が身を隠していた木に向かってやってくる。


「来るよ、一旦逃げよう」


 そこらの木々よりも頭一つ分高く、しかし幹の太さは倍以上ある奇っ怪な巨木が淡々と進行してくる姿に若干の不安を滲ませながら、スズが言った。

 すると。


「お、おかしい……」


 ジェニが呟き。驚愕するジェニの感情に合わせて、行進する音の大軍がピタリと止んだ。

 それでも、いいから、とジェニの疑問を意に介さず撤退を促すスズだったが、「あれを」というジェニの言葉に返され、視線を進行する巨木へと戻した。

 しかし、スズはまだ気づかない。


「わからないっ。何か気づいてるんなら説明して!」


 焦り声を荒げるスズに、ジェニは「効いていない」と言った。

 それで十分だった。

 即座に状況を理解したスズの口からこぼれたのは、「ラナイくん」。

 次いで、「どうして……」と言ったのは二人同時だった。


「黄色の息が……効いていない……」


 そう口にすると、ジェニの脳裏から"作戦"という二文字が消え失せた。

 ターを持つ手にも力が入らず、もう一度「どうして」とうなだれる声。体の脇にぶら下がるだけの細い腕は少女に乱暴に引かれ。

 そしてまた、ジェニは絶望した。 

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