【幕間】氷の下
わいわい、がやがや。あの騒がしい声が山を下りたあとも、まだ耳の奥に残っていた。
悪くない、と思う。あんなに騒がしい夜は、この屋敷では久しくなかった。
日がとっぷり暮れてから、俺は書斎にホルガーを呼んだ。
「聞いていたか」
「あらかたは」老家宰は、しれっと頭を下げた。「偽物の隣にもうひとつ本物の社を建てる。門前町総出で、たったの一日で。……ずいぶんと、豪儀な喧嘩でございますな」
「金も材木も人手もいる。手配しろ。惜しむな」
「かしこまりました。腕が鳴ります」
ホルガーは、うやうやしく応じた。それからふと思い出したように、付け足す。
「ときに、旦那さま。その、手伝いの人手のことですが」
「騎士隊から出せ。腕の立つ者を、見つくろえ」
「それが……少々、困ったことになっておりまして」
声にめずらしく苦いものが混じった。
「聖女様の社を建てる手伝いを募ったところ——騎士隊の、全員が手を挙げましてな」
「……全員?」
「一人残らず。非番の者まで、われもわれもと。持ち場を放り出してでも行く、と申す始末で」
——ほう。
俺は、口には出さなかった。だが胸の奥が妙にあたたかくなった。あの、無愛想で無骨な連中が。国境の見張りに明け暮れる、あの荒くれどもが。そろって彼女のために手を挙げた。
「掃除のついでに麦湯をふるまってもらった、荷運びを手伝ってもらった、道で会えば必ず名を呼んでくださる——と、まあ、口々に。あの手のつけられぬ荒くれどもの心まで、すっかりつかんでおられます」
「……そうか」
そうか、あいつらにも分かるのか。あの、雪みたいにまっすぐな笑い方が。どんな無骨者の胸にも、するりと入ってくる、あのあたたかさが。——分かるだろう。分からないはずが、ない。
気がつくと口の端がゆるみかけていた。俺はあわてて、それを引き結んだ。
「……なにを、笑っておいでで」
「笑っていない」
「はい。ひとつも」ホルガーは、しれっと言った。その目がほんの少し笑っている。
この男はこういうときだけ目ざとい。人前では俺はめったに顔を動かさない。動かせない、と言ったほうが正しい。十年氷のようだと言われ続けて、そういう顔が板についた。だがこの老いた家宰の前でだけは——どうにも、うまく繕えない。
「しめしがつかんだろう」俺は、話を戻した。「見張りを放り出して、どうする」
「まったくで。よって、こう取り計らいました。各隊から、二名ずつ。くじで選ばせます」
「二名」
「建てる手伝いをさせながら——それとなく、あの分社の見張りにもあたらせます。教会がからんでいる以上、なにが起きるか分かりませぬ。表向きは、ただの人手。裏では、警護。一石二鳥かと」
抜け目のない男だ。
「そうしろ。……くじに外れた連中は、さぞ恨むだろうがな」
「もう、恨んでおります」
俺は今度はこらえきれずに小さく笑った。この男の前でだけは、こういう笑いがこぼれる。
——とそこで笑いがすっと引いた。
「ホルガー。ひとつ、言っておく」
「はい」
「あの偽物の裏にいる商会。ザルク商会、といったな」
「さようで」
「昼間名を聞いたときから、どうにも虫が好かん」俺は指の先で机を叩いた。「教会の飼い犬だ。信心を銭に替える。人の祈りにたかって、肥える。……ああいう手合いが、俺はいちばん嫌いだ」
スズランの社は、その逆だ。銅貨五枚の守り札に、あいつは自分の祈りをまるごと乗せる。損も得も勘定に入れない。だからこそ——あの、金の匂いでしか動かない連中が、彼女の社に手を伸ばすのが、我慢ならなかった。それだけでも、潰す理由には十分だ。
「ごもっともで」ホルガーは、静かにうなずいた。「——ですが、旦那さま。手前があの店を忘れられぬのは、それだけではございませぬ」
俺は、顔を上げた。
「なんだと」
老家宰の目がふと遠くなった。
「あの店が、なにをおさめてのし上がったか。ご存じですか」
「祭具か。ろうそくか」
「それも。ですが——武具もでございます」ホルガーは、言った。「先代さまが魔物の主に立ち向かわれた、あのときの剣と鎧を」
書斎の火が、ぱちっと爆ぜた。
親父が魔物の主を討ち、その代償にこの凍てつきの呪いを負ったこと。それだけは、知っている。だがその先を俺はよく知らずにいた。
「……話せ」
「あの討伐はそもそも無理筋でございました。時季が悪い手勢が足りぬ——先代さまは、そう見ておられた。ですがそこへ教会が差し出口をしたのです」
「教会が」
「『光神のご加護あり。いま討たねば、民に災いが及ぶ』と。せき立てられ不利を承知で、先代さまは森へ入られました。……そしてその手に握られていた剣も、身を守る鎧も」
「ザルク商会の、ものだった」
「はい」ホルガーは、深くうなずいた。「剣は肝心のところで刃こぼれした。鎧の継ぎ目は、割れた。……その手当てを、手前はこの目で見ております」
「……親父ひとりの得物か」
「いいえ」老家宰の声が、沈んだ。「あの森へ向かった軍の、ことごとくがあの店のおさめた得物でございました。剣が折れ盾が割れ——前線で、幾人もの兵が討ち死にを。魔物にではなく、己の得物に見放されて」
いつのまにか、俺はこぶしを握っていた。
「証拠はございませぬ」老家宰は、ゆっくりと首を振った。「粗悪なものをうっかりおさめただけ、かもしれぬ。ただの、めぐりあわせかもしれませぬ。……ですが。あの傷さえ浅ければ。先代さまが、永らえられたのでは——と。手前はいまも、そう思わずにはおられませぬ」
教会がけしかけた。ザルク商会の武具が裏切った。そうして親父は呪いと深い傷を負って、森を出て——それから、数年ののちに逝った。俺がこの冷たいものを継いだのは、そのあとだ。力で討てば、呪いとなって返る。あの根は、力ずくでは絶てない。——それを俺は、この身で知っている。
俺の知る親父は、床に伏せたあの痩せた横顔だけだ。その死の淵に、あの商会の名が影を落としていた。
「……昔の話、ではないな」
「はい」
「同じ教会が同じ商会がいままた——スズランの社に、手を伸ばしている」
「さようで」
俺は、しばらく火を見ていた。それから、低く言った。
「やはり潰す。徹底的にな」
昼間山の上で口にしたときよりも、その底に流れる熱は、はるかに深かった。
「ええ」ホルガーは、うなずいた。「ただし、旦那さま。力ずくはなりませぬ。それこそ、あちらの思うつぼ。——聖女様のやり方で」
分かっている、と俺は返した。あれは、殴り返す喧嘩ではない。もっとあたたかくてたちの悪い喧嘩だ。
* * *
ホルガーが下がると、書斎はしんと静まった。
——たいした女だ。
追われてなにもかも失って、この山に流れついた。それがどうだ。あっという間に荒くれの騎士どもの心をつかみ、癖のある町の連中をひとつにまとめ、いまや教会を相手に喧嘩を売っている。しかも笑いながら。銅貨五枚の守り札ひとつで。
人前では言えない。氷の当主がなにを、と笑われる。だがだれもいないこの書斎でくらいは——認めても、いいだろう。
俺は、あの女がほこらしい。
そして、守りたいと思う。あいつがこの山に築いたものを。あいつが笑っていられる、このあたたかい場所を。——たとえその手を伸ばしてくるのが、親父を奪ったあの影だとしても。
耳の奥ではまだ昼間のあの騒がしさが、鳴りやまずにいる。わいわい、がやがや。あきれるほど、あたたかい喧嘩の声だ。
明日になればあの連中は街道へ繰り出して、もう一つの社を建てる。——それを、心待ちにしている自分に気づいて。俺はひとりまた口の端をゆるめた。
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