偵察のはずが(一) お忍び偵察、宿はいつも相部屋。心臓がもたない十日間
その噂が門前町に流れてきたのは、分社が建って十日ほど過ぎたころだった。
「お社さま聞いたかい」朝いちばんに、マーサさんが社務所へ駆けこんできた。「街道を来た巡礼さんが言うんだよ。——王都で、妙な噂が回ってるって」
「妙な、噂ですか」
「『辺境の鈴の社こそ、偽物だ』ってさ。『あんなのは異教で、まことの御利益は王都の教会にある』——ってね」
私は手にしていた帳簿を、そっと閉じた。
分社は、うまくいっている。毎朝私が祈ったお守りを、ロッコさんが届けてくれて、お参りの人はちゃんと本物を選んでくれる。偽物の社はもう見る影もない。
けれど遠い王都で立った噂は、街道での出来事とは、べつの生きものだ。噂が広がればそもそも巡礼に出る足そのものが、細くなる。
その晩、私はお屋敷の書斎に呼ばれた。ジークさまと、ホルガーさんがいた。
「噂の出どころを断つ」ジークさまは、いつもの短い言葉で言った。「王都だ。だれが、なんのために撒いている。——直に、確かめる」
「王都へ、出向かれるので?」
「ああ」
ホルガーさんが、しれっと口をはさんだ。「でしたら旦那さま。聖女様のお目もお借りになっては、いかがでしょう」
「……なに?」
「民の噂というものは、女子の耳のほうがよう拾えるものでございます。井戸端の話、市場の立ち話。むさくるしい殿方が一人でうろついても、口はかたい。連れがあればまたちがいましょう」
私は、きょとんとした。ジークさまはしばらく黙って、それからぼそりと言った。
「……あくまで、公務だ」
「もちろんでございます」ホルガーさんは、うやうやしく頭を下げた。その目がなぜだかほんの少し、笑っているように見えた。
こうして——なぜだか私は、生まれて初めて王都へ"偵察"に行くことになった。
王都、と聞いて胸の奥がふしぎにざわめいた。私は教会にいたころ、王都にいたはずなのに、街を歩いた覚えがほとんどない。大聖堂の東棟の祈祷所。行き来したのは、その狭いあいだだけ。外の王都がどんな匂いのする場所なのか、私は知らないままだった。
* * *
出かける朝、私はお守りをいつもの何倍も祈っておいた。留守のあいだも分社の棚が空かないように。たっぷり祈って、ロッコさんに預ける。
「留守を、頼みますね」
問題は、変装だった。
「巫女装束では、ひと目でそれと知れます。道中は、これを」
ホルガーさんが差し出したのは、どこにでもいる町娘の、地味な木綿の身なりだった。巫女服を脱いで袖を通して鏡の前に立つ。なんだか自分でない気がして、落ち着かない。
「お、おかしくないですか」
振り向くとジークさまが、なぜだかすっと目をそらした。
「……いや」
「変ですか?」
「変じゃない。……行くぞ」
なぜ目をそらすのだろう。私は首をかしげた。
ジークさまも、地味な外套に身を包んでいた。包んでいた、のだけれど。どうにも、隠しきれない。背すじの伸び方、あごの引き方人を見るときの静かな目。どこからどう見ても、ただ者ではない。
「旦那さまは目立ちすぎでございますな」ホルガーさんが、ため息をついた。「触れ込みは"訳ありの身内連れ"。道中、そのおつもりで」
身内。……身内?
その言葉の意味をのみこむより先に、馬車は動きだしていた。見送りの門で、アンが澄ました顔で座っていた。その隣でウンがふすーっと大きく鼻を鳴らして、こちらに背を向けた。留守番がよほど気に入らないらしい。「すぐ帰りますから」と言っても、ぷいと横を向いたまま、ふり返ってもくれなかった。
* * *
王都までは、馬車で十日の道のりだった。
初めての宿は街道ぞいの小さな宿屋だった。
「いらっしゃい! おや、お二人さんご夫婦かい?」
帳場の恰幅のいいおかみさんに、そう聞かれて。私はかちん、と固まった。
ご、ご夫婦。
「奥さん、寒かったろう。さ、あったかいお部屋へ——」
「おっ、お、お、お、奥さん」私の口から、変な声がもれた。「お奥さん……奥さんです……はい」
「あらやだ、初々しいねえ!」おかみさんが、けらけら笑った。
私は手で顔をあおぎながら、ぷしゅう、と湯気が出そうだった。……身内連れ、のはずが。いつのまにか夫婦に格上げされている。ジークさまは、というと、こういうときいっさい助けてくれない。しれっと宿帳に、なにか書いているだけだ。……ずるい。
通されたのはこぢんまりした、ひと部屋だった。寝台は、ひとつ。
……ひとつ。
私が寝台の端で、そわそわしていると。ジークさまは無言で外套を床に敷き、壁ぎわにごろりと横になった。
「そこで、寝るんですか」
「お前は、寝台を使え」
「そんな。領主さまを床に寝かせて、私が寝台だなんてとんでもないです! ……では、私も床で寝ます」
私は、ぱっと寝台からおりた。
「……なに?」
「大丈夫です。私、床は慣れてますから」私は、胸を張った。「教会の東棟なんて、板の間にうすい敷布が一枚きり。冬なんか、朝には息が白くて。それに比べたらこんなあったかい床——むしろ、ごちそうです。床で寝るなら、私のほうが先輩です!」
「……先輩」
「はい、先輩です!」
なぜだかジークさまが額を手でおさえた。
「……いいから、寝台を使え」
「いいえ、私が床です」
「寝台だ」
「床です!」
——けっきょく。
そのどちらもゆずらないやりとりの、はてに。私たちはなんとも間の抜けた結論に、たどりついた。
寝台のまんなかに、まくらをどんと一つ積んで。その右と左に、それぞれ背を向けて。二人しておとなしく寝台を使う、ということになったのだ。
「……国境の砦でも、ここまで面倒な陣立ては、しなかったぞ」
ジークさまの、あきれたようなつぶやきが聞こえた。私はまくらの壁のむこうで、ちいさくなった。
……ところが。問題は、朝に起きた。
あさ。私はなにか、あたたかくてかたいものをぎゅう、と抱きしめてほおずりしていた。ああ、あったかい。ずっと、こうしていたい。……この抱き枕なんだかいい匂いがする。すう、と息を吸って——
……抱き枕?
私は、うっすら目をあけた。
目の前に、あった。ジークさまの、鎖骨が。
……鎖骨が!?
「——ひゃあっ!?」
私は、飛びのいた。飛びのいて——寝台のへりを、大きく踏みはずして。
どすん。
「いたっ」
みごとに床にしりもちをついた。まくらの壁は、いつのまにか崩れて。私は夜のあいだにぬくもりを求めてまっすぐジークさまのほうへ、転がっていっていたらしい。
ジークさまが、がばりと身を起こした。
「——どうした。どこか、打ったか」
「だ、だ、だ、だ、大丈夫です! なんでも、ないです! ちょっと、その寝相が、わ、悪くて!」
私はゆでだこみたいにまっ赤になって、床でじたばたした。ジークさまは、心配そうにこちらへ手をのばしかけて——けれど、私のあわてぶりに毒気をぬかれたのか。ふ、と口の端をゆるめた。
「……変わった抱き枕だと思ったか」
「わ、わ、忘れてくださいっ!」
こうして道中はまあ、いろいろありながら。それでも何日か過ぎると、私も少しは慣れた。夜寝つけないまま暗がりのなかのジークさまの寝息を、そっと聞いていることがあった。呪いのせいで、十年もだれにも触れられずに生きてきた人。その人がいま手をのばせば届くところで、静かに眠っている。……なんだか、ふしぎだった。こわい人だと、みんなは言うのに。私にはこの人が少しもこわくなかった。
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