護送馬車は今日も快晴(四) 解けます。——私は、光が弱いから
執務室の扉が、開きました。
窓を背に、一人の男の人が立っていました。黒い上着、黒い手袋。整った、けれど笑わない横顔。冬の空のような、澄んだ色の瞳が、こちらを向いて——。
「あ!! いい返事の人!」
思わず、指をさして叫んでしまいました。
そう。あの夜会の、黒衣の方。すれ違いざまに「いい返事だった」と言い残して去っていった、あの無礼な——いえ、あの、謎の御方。まさか、この方が、辺境伯さまだったなんて。
「…………」
ジークヴァルドさまは、思いきり、目をそらしました。窓の外を、じっと見つめています。……なぜか、耳のあたりが、ほんのり赤いような。
「? どうかなさいましたか」
「……いや」
ホルガーさんが、私と当主を、交互に見比べて、こてん、と首をかしげました。
「お二人は……お知り合いで?」
「知り合いというか」「知らん」
私と当主の声が、ぴったり重なりました。当主は「知らん」とおっしゃいましたが、いい返事だった、と声をかけてきたのは、そちらのはずです。おかしいですね。
「あの、旅立つ前に、王宮の夜会で、この方が私に——」
「その話は、いい」
私の説明を、当主が、ぴしゃりと遮りました。心なしか、早口で。耳のあたりは、相変わらず、ほんのり赤いままです。
ホルガーさんが、主とその赤い耳を、まじまじと見比べて、それから、何か察したのか、そっと胃の薬に手を伸ばしました。……この方の胃が心配です。
まあ、いいでしょう。夜会の一件は、脇に置きます。今は、もっと大事な話があるのですから。
私は、抱えてきた記録の束を、机の上に、どん、と置きました。
「当主さま。歴代の聖女さまがたの記録、拝見しました」
執務室の空気が、すっと引き締まりました。
私は、当主の、手袋をした手に、そっと意識を向けました。
触れはしません。ただ、その手のあたりに漂う気配を、目を閉じるようにして、感じ取ろうとする。前世で、弱った御神木や、病んだ土地の気を読んだときと、同じやり方です。祈りが遅い私は、そのぶん、こういうことだけは、人より少し、得意なのです。
——ああ。なるほど。
当主の呪いは、荒れ狂う嵐のようなものだと、勝手に思っていました。けれど、違いました。感じ取れたのは、もっと静かで、もっと深い、凍えでした。長いあいだ、じっと固く閉じて、誰も寄せつけまいと、身を縮めている。まるで、雪の下で春を待つのに疲れて、待つのをやめてしまった、種のような。
これは、力ずくで叩き起こしても、開きません。叩けば叩くほど、固く縮こまるだけ。
「みなさん、同じ失敗をしています」
私は、目を開けて、記録の束を、ぱらぱらとめくってみせました。
「強い光で、一気に、呪いを焼き切ろうとしている。力ずくで、押さえ込もうとしている。——でも、それでは、絶対に解けません」
「なぜ、そう言い切れる」
初めて、当主が口を開きました。低い、静かな声。
「凍った窓を、思い浮かべてください」
私は、窓辺を指さしました。
「冬の朝、窓ガラスが、かちかちに凍りついている。早く溶かしたいからって、そこに熱湯をざぶんとかけたら、どうなります?」
「……割れる」
「そうです。割れます。急な温度差に、耐えきれなくて」
私は、当主のほうへ、一歩、近づきました。手袋をした、その手を、見つめて。
「呪いも、同じなんです。凍りついたものを、無理に、一気に溶かそうとするから、跳ね返される。傷つく。——みなさんは、間違ったことをしたんじゃない。**急ぎすぎた**んです。ただ、それだけ」
「……だが、これまでの聖女は、みな、お前より腕が立った。なぜ、お前だけが解けると」
もっともな疑問です。私は、正直に答えました。
「解けます。というより——私は、光が弱いから、解けるんです」
当主が、わずかに、眉を寄せました。弱いから、という言葉が、意外だったのでしょう。
「私の祈りは、遅くて、弱い。教会では、ずっと、それが欠点でした。急かされて、叱られて。……でも、この呪いには、たぶん、その弱さが、ちょうどいいんです。強い光では割れてしまう氷を、私のろうそくくらいの火なら、割らずに、じっくり溶かせる」
言いながら、私は、自分でも少し、驚いていました。
この十年、ずっと恥じてきた、私の「遅さ」。数をこなせと叱られ、列の最後尾に立たされ続けた、この頼りない光。それが——ここでは、役に立つかもしれない。初めて、そう思えたのです。
なんだか、可笑しな話です。追放された先で、追放の理由だったはずの欠点に、救われるだなんて。
当主の瞳が、初めて、まっすぐに、私を捉えました。
化け物を見るのでも、哀れなものを見るのでもない。値踏みするのでもない。ただ、まっすぐに。まるで、初めて自分の言葉が通じる相手に出会った、とでもいうように。
……たぶん、この人は。ずっと、そういう目で見られてきたのでしょう。呪われた領主。触れれば凍る、恐ろしい男。——そのどれでもない目で、この人を見た人が、この十年、一人もいなかったのだとしたら。
少しだけ、胸が痛みました。
でも、しんみりするのは、後にしましょう。今は、仕事の話です。
「一年、ください」
私は、はっきりと申し上げました。
「一年、いただければ。遅いですが、確実に、解いてみせます」
「い、いちねん!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、ホルガーさんでした。胃の薬を、もう一つ、口に放り込んでいます。
「これまでの聖女さまは、どんなに長くとも、ひと月ともたずに……それを、一年、とは」
「ええ。一年です。むしろ、それより早くは、無理です」
絶句するホルガーさんの隣で、当主だけが、静かに私を見ていました。そして、短く、問いました。
「……理由は」
「呪いにも、心の準備というものが、いるんです」
私は、微笑みました。
「無理やり引き剥がそうとすれば、しがみつく。それが呪いです。だから、急がない。少しずつ、少しずつ、温めて。呪いのほうから、『もう、いいかな』と思って、自分から溶けたくなるまで——ゆっくり、待つんです」
祖母が、弱った御神木を癒すときに、いつもしていたやり方です。焦らない。急かさない。相手の速さを、尊重する。
当主は、しばらく、黙っていました。窓の外の、雪の残る庭を見つめて。
その横顔を見ながら、私は思いました。この人は、たぶん、迷っているのではない。——怖いのだ、と。
また、期待して。また、裏切られるのが。十二人ぶんの「今回も、だめだった」を書いてきた人が、十三人目に、うかつに希望を抱くのを、怖がっている。
だから私は、急かしませんでした。呪いと同じ。この人にも、心の準備が、いるのでしょうから。
やがて当主は、こちらへ視線を戻して、ひとこと、言いました。
「———雇う」
たった、それだけ。けれど、その二文字には、この十年ぶんの、何かが込もっているような気がしました。
ホルガーさんが、はっと顔を上げて、主を見ました。その目が、みるみる潤んでいくのを、私は見ないふりをしました。忠義の人の涙を、じろじろ見るものではありません。




