護送馬車は今日も快晴(三) 十二人の聖女が、逃げ帰った家
辺境伯のお屋敷は、町のはずれ、黒々とした山を背にして、そのふもとに建っていました。屋敷のすぐ裏手には、木々の深く茂った小山が、しんと静まりかえって、そびえている。まるで、屋敷ごと、その山に、そっと隠されているような。そんな眺めでした。
馬車が、屋敷へ続くゆるい坂を登りきると、御者のおじさんは、門の少し手前で馬を止めました。
「……ここから先は、あたしは行かねえ。悪いが、歩いてってくれ」
屋敷に近づくのも、怖いようです。おじさんは、私が降りると、ほっとしたような、それでいて申し訳なさそうな顔で、「達者でな。いざとなったら、逃げるんだぞ」と言い残して、坂を下っていきました。
さて、と私は、目の前の屋敷を見上げました。
黒い石造りの、厳めしいお屋敷です。冷たく、静かで、人を寄せつけない気配。けれど、よく見れば、窓辺には手入れされた鉢植えがあり、玄関先の石畳は、きれいに掃き清められていました。荒れてはいない。むしろ、丁寧に守られている屋敷です。
——住んでいる人が、ちゃんと大切にされている証拠だわ。
私は、少しだけ、この屋敷が好きになりました。門をくぐると、白髪の老人が一人、背筋を伸ばして待っていました。きっちりと着込んだ執事服、そして——なぜか、片手に小さな薬の包み。
「お待ちしておりました。当家の家宰、ホルガーと申します」
丁寧な、けれどどこか疲れたお辞儀でした。
「聖女スズランです。よろしくお願いします」
「……よろしく、ですか」
ホルガーさんは、その言葉が意外だったのか、少し目を見張りました。それから、薬をひとつ口に放り込んで、ゆっくりと歩きだします。
「早速ですが、当主のことを、ご説明せねばなりません」
長い廊下を歩きながら、ホルガーさんは、静かに語りはじめました。
「当主ジークヴァルドさまは、『凍てつきの呪い』を負っておられます。触れたものから、体温と生気を奪う呪い。……先代さまが、北の森の魔物の主を討った、その代償として、受け継がれたものです」
「先代さまから、受け継がれた?」
「はい。ジークヴァルドさまご自身が、望んで背負われたわけではございません。十歳のとき、先代さまの死とともに、その身に。……以来、あの方は、誰にも触れず、誰にも触れさせずに、生きてこられました」
ホルガーさんは、廊下の窓から、雪の残る庭を見やりました。
「食事も、湯浴みも、着替えも、すべてお一人で。侍女が髪を整えることも、肩に外套をかけることも、許されません。うっかり触れれば、その者が凍えますゆえ。……十の歳から、ずっと、でございます」
私は、その光景を、思わず想像してしまいました。
十歳の子どもが、ある日突然、誰にも触れられなくなる。抱きしめてくれる手も、頭をなでてくれる手も、全部、遠ざけなければならなくなる。優しくされることすら、許されなくなる。
——それは、呪いというより、罰のようです。何も悪いことをしていない人に科された、あんまりな、罰。
ホルガーさんの声は、淡々としていました。淡々としているのに——いえ、淡々としているからこそ、その奥ににじむものが、はっきりと伝わってきます。
この老人は、主家を、心から大事に思っている。
説明が事務的であるほど、その情の深さが、かえって際立つのです。きっと、感情を込めて語れば、声が震えてしまう。だから、わざと、淡々と話しているのでしょう。
「……お薬、いつも持ち歩いていらっしゃるんですか」
私が尋ねると、ホルガーさんは、ふ、と苦笑しました。
「胃の薬です。この十年で、すっかり手放せなくなりました」
この方の胃を痛めつけている原因は、たぶん、聞かなくても分かる気がしました。
「こちらが、これまでの記録でございます」
通された小部屋で、ホルガーさんは、分厚い記録の束を机に置きました。歴代の聖女がたが、呪いを解こうと試みた、その記録だそうです。
私は、椅子に腰かけて、束をめくりはじめました。
一人目。強力な聖女。光を最大に高めて呪いを焼き切ろうとするも、逆に弾き返され、三日で高熱を出して退去。
二人目。位階の高い聖女。連日、強い祈りを浴びせるが効果なし。一週間で「人の手に負えない」と匙を投げて帰還。
三人目、四人目、五人目。——どれも、判で押したように、同じでした。
みな、光を強くする。一気に。呪いを、力ずくで押さえ込もうとする。そして、跳ね返されて、傷ついて、逃げていく。
六人目は初日に泣き出し、七人目は当主の顔を見ただけで震え、八人目は三日で荷物をまとめた。
どの聖女も、優秀な方ばかりでした。位階も高く、光も強い。教会が選りすぐって送り込んだ、精鋭たち。なのに、みんな、同じところで、つまずいている。
記録の余白には、当主自身が書き添えたらしい、短い一文が残っていました。几帳面な、けれど、どこか力のない筆跡で。
『——今回も、だめだった。彼女を、責めることはできない』
十二人ぶん。同じ言葉が、少しずつ形を変えて、繰り返されていました。誰も責めず、ただ、自分のせいだと引き受けて。
……この人は。逃げていった聖女たちのことを、一度も、恨んでいないのですね。
めくる手が、だんだん速くなっていきました。
(違う。……みんな、やり方が、違う)
胸の奥が、ざわざわしはじめます。これは、前世で、弱った御神木を診たときと、同じ感覚。傷んだものを前にしたときの、巫女の、勘。
十二人ぶんの記録を読み終えて、私は顔を上げました。
「ホルガーさん。当主さまに、お会いできますか」
私の声が、さっきまでと、少し変わっていたのでしょう。ホルガーさんは、一瞬、探るように私を見て、それから、静かにうなずきました。




