護送馬車は今日も快晴(二) 施しは受けません。おいしいパンには、お代を払います
旅も、残り数日となった、ある日のことでした。
「……いてて」
荷物にもたれていたロッコさんが、顔をしかめて、右の肩を、とん、とん、と叩きました。
「どうかなさいました?」
「ああ、いや。古傷でね。若い頃に、荷馬車から落ちて、肩を痛めてな。……こういう、寒い日は、決まってうずくのさ。歳は取りたくねえもんだ」
肩を回そうとして、また顔をしかめる。だいぶ、痛むようです。
私は、少し考えて、それから膝を進めました。
「ロッコさん。その肩、少しだけ、触ってもよろしいですか」
「ん? ああ、かまわねえが……姉さん、聖女さん、だったよな。まさか、治してくれるってのかい。おれの肩みたいな、こんな古傷を?」
「治す、というほどではありませんが。楽には、なると思います」
私は、ロッコさんの肩に、そっと手を当てました。
目を閉じて、時間をかけて。凝り固まった古い傷の芯に、じんわりと、温かいものを送り込むように。急がず、焦らず。前世で、祖母がしていたやり方です。
派手な光は、出ません。私の祈りは、いつだって、ろうそく一本ぶん。けれど、ゆっくりと、確かに。傷んだところが、少しずつ、ほどけていくのが、手のひらに伝わってきます。
しばらくして、私は手を離しました。
「……あれ」
ロッコさんが、ぐるり、と肩を回しました。それから、もう一度。目を、まん丸に見開いて。
「軽い。……嘘だろ。何年も、こんなに軽く回ったことなんざ、なかったのに。姉さん、あんた——」
「一年もつかどうかは、分かりません。でも、しばらくは、楽なはずです。また痛くなったら、そのときは、お代をいただいて、ちゃんと祈りますから」
「お代て、あんた……!」
ロッコさんは、笑っていいのか驚いていいのか分からない、という顔で、しばらく私を見つめて。それから、しみじみと言いました。
「燭台級だなんて、言ってたが。……あんた、大したもんだよ。教会の連中は、見る目がねえな」
そう言っていただけると、少し、嬉しいものです。この十年、そんなふうに言ってくれた人は、一人もいませんでしたから。
その日を境に、ロッコさんは、すっかり私と打ち解けてくれました。商売の話、旅の失敗談、行く先々の名物のこと。長い長い道中も、この陽気な人のおかげで、ちっとも退屈しませんでした。
そして、旅も十日目に近づいた頃でしょうか。窓の外を流れる景色が、ひときわ、寒々しくなってきました。溶け残った雪。痩せた畑。やがて、はるか北の稜線に、黒々とした森が横たわっているのが見えました。まるで、大地に墨を刷いたような、深い、深い森。あそこだけ、日の光を吸い込んでしまっているようでした。見ているだけで、背筋が、すう、と冷たくなる。
「……あの森にゃ、近づいちゃならん」
御者のおじさんが、声を潜めました。
「昔から、そう言われとる。なんの話だったか、もう忘れちまったが、とにかく、ろくなもんじゃない。あそこだけは、な」
ずいぶん、あやふやな警告です。けれど、あの森を見ていると、その「ろくなもんじゃない」という言葉が、妙に、体に染みてくる気もしました。
私は膝掛けを引き寄せて、また鼻歌を再開しました。今日はもう、四曲目です。
* * *
十日ほど揺られて、馬車は領都エルデに着きました。
灰色の石を積み上げた、質実な町でした。華やかさはありませんが、家々の造りはがっしりとして、いかにも冬の厳しい土地、というたたずまいです。
「おれは、ここからまた別の道でね」
ロッコさんが、荷物をまとめながら言いました。十日も同じ馬車に揺られれば、別れが、少し、名残惜しく感じられるものです。
「姉さん。あんた、いい聖女さんだ。……あの呪いの領主さまが相手じゃ、苦労も多かろうが、無理はしなさんな。おれは商売で、あちこち回ってる。またこの辺に来たら、あんたの噂、聞かせてもらうよ」
「ありがとうございます。肩、お大事に」
「おうよ。——この肩のこと、行く先々で吹聴しちまうかもしれねえぜ。えらい聖女さんがいるってな」
ロッコさんは、痛くないほうの手をひらひら振って、雑踏の向こうへ消えていきました。にぎやかな人でした。おかげで、十日の長旅も、ちっとも退屈せずにすみました。……また、どこかで会えるでしょうか。少しだけ、そう思いました。
馬車が大通りをゆくと、町の人たちが、ちらちらとこちらを見ました。
「……また、聖女さまが来なさった」
「今度の方は、いつまでもつかね」
「気の毒に。何も知らんで来なさったんだろう」
ひそひそ声が、あちこちから聞こえてきます。同情半分、諦め半分。私の前に、いったい何人の聖女がここへ来て、去っていったのでしょうか。町の人たちの目は、もう「期待」というものを、とっくに手放しているように見えました。
馬車が広場で停まると、パン屋の軒先から、看板娘らしき若い娘さんが、ひょいと駆け寄ってきました。手には、こんがり焼けたパンを一つ。
「あの、これ……よかったら。道中、お腹すいたでしょう」
同情のこもった、優しい目でした。ありがたい申し出です。実際、お腹はぺこぺこでした。
けれど私は、鞄からきっちり銅貨を一枚取り出して、娘さんの手に握らせました。
「ありがとう。——でも、いただくわ。ちゃんと買います」
「え? い、いえ、お代なんて」
「施しは、受けないことにしているの。その代わり、おいしいパンには、ちゃんとお代を払う。そのほうが、私も、気持ちがいいのよ」
娘さんは、きょとんとした顔で、それから小さく笑って、銅貨を受け取ってくれました。
「聖女さま、変わってらっしゃるのね。……今までの方は、みんな、そんなふうじゃなかった」
なるほど。それは、うまくいかないはずです。
施しを恵んでくれる相手を見下すのは、いちばん、してはいけないこと。頭を下げに来た人にこそ、こちらから頭を下げなさい——前世の祖母の、口ぐせでした。
うん。ずしりと重くて、皮はぱりっと香ばしい。銅貨一枚の価値は、じゅうぶんにあります。全財産が二十二枚に減りましたが、実に、良い買い物でした。




