復帰命令(三) 「スズラン、なぜ俺を頼らない」
鳥居の柱に背をあずけて、ひとりの男が司教さまの行く手をふさぐように、立っていた。
ジークさまだった。日暮れの光を背にして、腕を組んでいる。いつのまに来ていたのか、私も気づかなかった。
「これは……ノルデン辺境伯さま」
司教さまが明らかにたじろいだ。氷の辺境伯の悪名は、王都にも轟いている。杖を握りなおして、精いっぱい居ずまいを正す。
ジークさまは腕を組んだまま、司教さまを見下ろした。背が高いから、見下ろす形になる。その目には、なんの熱もなかった。ただ静かに冷たかった。
「教会の使いが俺の領でなにをしていた」
「な、なにを、と申されましても。これは教会の内々の、聖女に関わる話でございまして……」
「聖女スズランはこの社の巫女だ」ジークさまは、司教さまの言葉を静かにさえぎった。「そしてこの社は俺の領にある。——彼女は、当領の民だ」
司教さまの顔が、こわばった。ジークさまは、そこで一歩司教さまに近づいた。声は少しも荒げていないのに、あたりの空気がすっと冷えたような気がした。
「教会ごときが俺の領で勝手をすることなど、許さん」
「い、いやしかし、これは大司教さまの、ご命令で……」
「大司教だろうがなんだろうが関係ない。俺の民を連れていきたければ——王の許可でも取ってこい」ジークさまは、冷たく言い放った。「そうでなければ、二度とこの鳥居はくぐらせん」
王の許可。教会の司教が王の名で書きつけをもらうなど、できることではない。ジークさまはそれが無理筋だと分かったうえで、わざといちばん高い壁を、司教さまの前にどんと置いてみせたのだ。
司教さまはしばらくジークさまをにらんでいたけれど、やがてふん、と鼻を鳴らして背を向けた。
「……覚えておきましょう」
そう言い残して司教さまの一行は朱い鳥居をくぐり、山道を下りていった。ジークさまはその背中が見えなくなるまで、鳥居の下に立ってじっとにらみつけていた。
私は少し離れたところから、その広い背中をながめていた。あの人はいつもこうだ。多くを語らずに、ただ私の前に静かに立ってくれる。——ひとりじゃない。そう思うと胸のあたりが、ぽかぽかとあたたかくなった。
* * *
その夜私はなかなか寝つけずにいた。
目をつぶってもミレイユのかすれた「みんな」の字が、まぶたの裏に浮かんでくる。どうしても眠れなくて、私は庭に出た。夜の庭はしんと冷えて、星が痛いくらいにきれいだった。
庭のすみの暗がりから、のっそりと白いかたまりが出てくる。ウンだ。無愛想な神獣の子で、めったに愛想は振らないけれど、こういう夜にはなぜかそばに来てくれる。
「……ねえ、ウン。私、ずるいのかな」
ウンは、なにも言わない。ただふさふさの耳をぴくりと動かして、こちらを見上げた。聞いているよ、というみたいに。
「私だけ、こんなに幸せで。ミレイユたちは、まだあそこでひもじい思いをしてて。……あの子の分まで、って言われてうれしいはずないのに。私なにも、できないの」
ウンが私の膝にあごをのせた。あたたかかった。
「連れ戻したいか」
背中のほうから、低い声がした。振り向くといつのまにかジークさまが柱に背をあずけて、立っていた。夜着に外套を羽織っただけの、くつろいだ姿だった。
「ジークさま……いつか、連れ戻したいです。でもいまの私が行っても、また教会に吸い上げられるだけで。あの子を助けるどころか、私まで逆戻りしてしまって……」
ジークさまはしばらく黙っていた。それから私の隣に来て、外套をそっと肩にかけてくれた。
「スズラン。なぜ、俺を頼らない」
私は、顔を上げた。
「俺はそんなに頼りにならない男か」
「そ、そんなことありません。ただこれは私の——」
「ひとりで抱えるな」ジークさまは、私の言葉を静かにさえぎった。「俺を、頼れ」
まっすぐな声だった。星あかりのなかで、その横顔はいつもの氷みたいに静かな顔だったけれど、言葉だけは火のように熱かった。
「連れ戻せないなら、道を変えろ。——吸い上げられない場所を、大きくしろ。この社を教会の手が届かないほど、大きくするんだ」
「大きく……」
「金も人も後ろ盾も俺が出す。この社をもっと大きくするぞ」ジークさまは、山の上の社のほうへ、目をやった。「その子達がいつでも逃げこめる場所を、この山に作る。——ひとりでやれとは言わない。俺と、ふたりでだ」
私はその言葉を胸のなかで、そっと繰り返した。
吸い上げられない場所を、大きくする。それは逃げることでも、あきらめることでもなかった。いつかあの子たちをまるごと受けとめられるだけの、大きな懐をこの山に作る、ということだった。そしてそれを——ひとりでやらなくて、いいのだ。
「……はい」私は、うなずいた。声が少し震えた。「大きく、します。ジークさまと、ふたりで」
ジークさまはそれには答えず、ただ小さくうなずいた。それからゆっくりと屋敷の中へ、戻っていった。ウンがその背を少しのあいだ見送ってから、私の足もとにすり寄ってきた。
* * *
ジークさまの気配が消えたあと。
私はお屋敷の庭にひとり立った。夜のしじまに星がしんと澄んでいた。
胸のなかからミレイユの文を取り出して、両手で包む。目をつぶって、祈りをひとつ束ねる。線香をあげるかわりの、静かな祈りだ。
向ける先は、王都の方角。あの大聖堂の、東棟の祈祷所。夜中までけなげに祈りを納めている、ミレイユたちのいる場所。
(もう少しだけ、待っていてね)
私は心のなかで、そっと語りかけた。
(私、ここを大きくするから。誰にも吸い上げられない、大きな場所にするから。そうしたら、迎えに行く。うんとうんとあたたかいごはんを用意して、待ってるから。——今度は、ひとりじゃないの)
祈りが風に乗って、王都のほうへゆっくりと流れていった。
目をあけると司教さまの最後の捨て台詞が、ふいに耳の奥でよみがえった。
——教会を敵に回した聖女が、どうなったか知らんのか。
知りませんけど。
私は星あかりのなかで、ひとりにっこり笑った。
敵に回された神社がこれからどうなるのかは——これから、ゆっくり教えて差し上げます。
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