復帰命令(二) 「ただ働きには、二度と戻りません」。狂う司教の算盤
お団子をつまもうとしていた司教さまの手が、宙で止まった。
「な……なんと申した」
「お断りいたします、と。せっかくのお話ですが、私大聖堂へは戻りません」
みるみるうちに上機嫌だった顔から、血の気が引いてそれからじわじわと赤くなっていった。さっきまであんなにゆるんでいた頬が、ぶるぶると震えている。
「き貴様いま自分がなにを言っているのか、分かっているのか。破門をまぬかれ、聖女に戻れるのだぞ。十年あの大聖堂で育ててもらった恩を、もう忘れたのか」
「恩は感じております」私は、うなずいた。「ですから利子をつけずに、正直に申し上げますね」
私は、まっすぐに司教さまを見た。
「私の祈りには、正当なお代をいただいております。お守り一つに、銅貨五枚。祈った人の、一食ぶんです。——ただ働きには二度と戻りません」
「たただ働きとはなんという言い草だ。聖女の奉仕は、光神さまへの——」
「十年無給で朝から晩まで働きました」私は、にっこり笑ったまま、言葉をかぶせた。「一度もお給金をいただいたことは、ありません。もう十年ぶんの奉仕は、きちんと納めました。じゅうぶんでしょう?」
司教さまは言葉に詰まって、口をぱくぱくさせた。私はここでずっと言えなかったことを、そっとつけ加えた。
「司教さま。ひとつだけ、余計なことを。——あの給金で人を使いつづけたら、いつか誰もいなくなりますよ」
司教さまは手にしていたお団子を、ぽとりとお皿に落とした。
それでも司教さまは気を取り直して、別の手を打ってきた。
「……よかろう。給金の件は、考慮する。位階も燭台級ではなく、ひとつ上にしてやってもいい。王都の、日当たりのよい住まいも用意しよう。身のまわりの世話をする、専属の侍女もつけよう。どうだ。辺境のあばら家住まいとは、くらべものになるまい」
司教さまは指を折りながら、条件をひとつずつ積み上げていった。まるで天秤の片方に、お宝をどんどん載せていくみたいだった。
私はうーんと首をかしげて、社務所の棚から一冊の帳面を取り出した。うちの、売り上げ帳だ。
「あの、司教さま。ちょっとだけ、これ見ていただいてもいいですか」
私は帳面をひらいて司教さまの前に、ことりと置いた。日々のお守りの授与数と、おみくじと御朱印の数が几帳面に書きつけてある。司教さまはいぶかしげに、その帳面をのぞきこんだ。
そして——数字を目で追ううちに、だんだんその顔がおかしなことになっていった。眉が寄り口がへの字になりこめかみのあたりが、ぴくぴくと動く。
「……なぜだ」司教さまは、うめくように言った。「お守りが一つ銅貨五枚。おみくじが、銅貨一枚。こんな雀の涙のような値付けで、なぜ月にこれだけの……いや、そんなはずは……」
安すぎる値段と帳面の下に書かれた合計の額が、どうしても頭のなかで結びつかないらしい。指で、数字を何度もなぞりなおしている。
「一つ一つが安いから、みなさん気楽に何度も来てくださるんです」私は、横から種明かしをした。「高くて立派なものを、年に一度いただくより、安くて小さなものを、月に何度もいただくほうが、うれしいでしょう? 祈りもそれとおなじです」
「ししかしこれでは原価が……いや、そもそも祈りに原価などというものは……」
司教さまはぶつぶつと算盤の合わない計算を、口のなかでこねくりまわしていた。従者が心配そうにその背中をさすっている。私は帳面をぱたんと閉じて、にっこり笑った。
「というわけでうちの社のほうが、たぶん儲かっております。ですから王都のお住まいも専属の侍女さんも、どうぞお気になさらず」
とうとう司教さまは切り札を出してきた。
ふところから、一通の文を取り出したのだ。それを勝ち誇った顔で私の前にことりと置く。
「では、聖女スズラン。——これを見ても、同じことが言えるかな」
私はその文を手に取った。差出人の名は、書かれていない。けれどひらいてすぐに分かった。まるっこいけれどいっしょうけんめいな字。ミレイユだ。
ミレイユは、私の後輩の聖女だった。十五歳のまだ幼さの残る子で、誰よりもまじめだった。この文は、私に宛てて書かれたものだ。それがなぜ司教さまの手に。——教会は下の者の文を外へ出す前に、あらためる。ミレイユはこれを送ろうとして、握りつぶされていたのだ。
『スズ姉さま、お元気ですか。私たちは、みんな元気です』
みんな元気です、のみんなの字が少しだけかすれていた。
『このごろ東棟の祈祷所はとても忙しいです。でも、大丈夫。みんなで手分けして、がんばっています。夕ごはんはこのごろすこし質素になりましたけど、私もともと少食なので、平気です。スズ姉さまの分まで、私がんばりますね。だから、心配しないでください』
明るい文字の裏側から、別のものがにじんで見えた。私が抜けて一人ぶんの仕事が、あの子たちに割りふられたのだ。減った人数で同じだけの祈りを納めろと言われて、食事を切りつめてでも、夜中まで祈祷所にこもっている。そのけなげな姿が透けていた。
文を持つ手が、震えた。
「どうだ」司教さまが、勝ち誇った声を出した。「そなたが抜けたせいで、下の者らがこの有様だ。そなたが戻ればあの者らの荷は軽くなる。——さあ後輩がかわいくば戻ると言え」
私は、うつむいた。しばらく、なにも言えなかった。ミレイユのかすれた「みんな」の字が、じんと胸に刺さっていた。
——でも。
私は、顔を上げた。
「……いいえ。戻りません」
「なんだと」
「私が戻ってもこの子たちは楽になりません。人が、ひとり増えるだけ。また同じように祈りを吸い上げられて、おしまいです。それではなにも、変わらない」
私はミレイユの文をそっと胸に抱いた。
「この子を、ほんとうに助けたいなら。——私がすべきことは、あの牢屋みたいな場所へ、のこのこ戻ることじゃ、ありません」
司教さまは、とうとう立ち上がった。
切り札まで通じなかったのが、よほど悔しかったらしい。顔は、真っ赤だった。
「もうよい。話にならん! おい、帰るぞ!」
従者が、あわてて荷物をまとめる。私は玄関先までおふたりをお見送りに出た。せっかく遠くから来てくださったのだから、最後まできちんとお見送りしなくちゃ、と思う。
「わざわざ遠いところを、ありがとうございました。お気をつけて、お帰りくださいませ」
私が頭を下げると、司教さまは履き物をつっかけながら、こちらを振り返った。その目は細く冷たくなっていた。
「聖女スズラン。ひとつ、忠告しておいてやる。——教会を敵に回した聖女が、どうなったか知らんのか」
私は、きょとんとした。知らない。だってそんな人見たことがない。
私のぽかんとした顔を見て、司教さまはふん、と鼻を鳴らした。それから私が胸に抱いた文へ、ちらりと目をやって、意地の悪い笑みを浮かべた。
「その手紙でもせいぜい眺めて、眠れぬ夜でも過ごすがいい。——後悔しても、知らんぞ」
司教さまはそれだけ言うとこちらの返事も待たずに、参道を下りていった。従者が大荷物を抱えて、そのあとをよたよたと追う。私は胸のなかの文をぎゅっと抱きしめたまま、その背中を見送った。
——けれど参道の先、朱い鳥居の下でその一行の足が、ぴたりと止まった。
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