【幕間】見えない手
スズランを庭に残して、屋敷のなかへ戻った。もう、皆が寝静まる刻限だ。
だが、俺はまっすぐ寝室へは向かわなかった。廊下の奥まだ灯りの漏れている一室の戸を、こつ、と叩く。
「ホルガー。まだ起きているか」
「はい」すぐに、返事があった。老家宰はこんな夜更けでも、たいてい起きている。戸を開けると書き物の途中だったらしく、ロウソクのそばに帳面が広げてあった。
「お呼びとあれば、いつでも。……どうかなさいましたか、旦那さま」
「頼みがある」俺は、椅子をひとつ引いて、腰を下ろした。長くなる話だ。
「王都に、人を送りたい。大聖堂の、中へ」
ホルガーの片眉が、わずかに上がった。
「……大聖堂の中へでございますか」
「スズランの昔の仲間を守ってやりたい」
俺は、窓の外へ目をやった。坂の上月あかりのなかに、社の鳥居が黒く静かに立っている。
「あれがいた東棟とかいう、日の当たらない棟に、後輩や同輩が残っている。今日の司教は、それを切り札のように使ったようだ。あれが教会に逆らったぶんの腹いせは、まずその者たちに向く。まちがいない」
さっき庭であれは言っていた。連れ戻したくても今の自分が行けば、また吸い上げられるだけだと。ひとりで抱えて、うつむいていた。なんでも笑ってやり過ごすあの女が、めずらしくな。——あれをあのままにはしておけない。
「なるほど。……聖女様の大切な方々でございますな」ホルガーの声が、ふっとやわらいだ。「よくぞ、お聞かせくださいました。それはなんとしてもお守りいたさねば」
金がかかるとも、危ないともこの男は言わなかった。ただまっすぐにうなずいた。俺のやりたいことを、俺より先に飲みこんだ顔だった。
「間者を、と思っている。目立たない、商人あがりでも探せば——」
「いえ、旦那さま。それではいざというとき動けませぬ」ホルガーが、めずらしく俺の言葉をさえぎった。「もっと、確かな者がおります。——斥候部隊から腕のよい隊長を数名。人混みに気配を消して紛れるのも、なにかあったときに人ひとり守り抜くのも、あの者たちなら手慣れております」
斥候部隊。うちで、いちばん腕の立つ連中だ。そこから隊長を割く、とこの老家宰はこともなげに言う。
「身分を伏せて数を絞って王都へ。手引きも路銀の工面も、こちらでいたします。……いかがでしょう」
「……任せる」俺は言った。「食う物が減らされているなら、まわるようにしてやってくれ。無理な割り当てを負わされているなら、それも、それとなくな。」
「ご案じなさいますな」ホルガーは、静かに笑った。「聖女様のためとあらば、この老いぼれ喜んで知恵をしぼりましょう。」
* * *
「では手配のためにその者たちの名を。名がなければ、動きようがございません」
「ミレイユ、という後輩がいる」俺は言った。「十五の、泣き虫だそうだ。あれが、いちばん気にかけている。まず、その子を頼む」
「ミレイユさま、と。ほかには」
「あとは——朝にめっぽう弱いのが、ひとり。夜になると心細がるのがひとり。名は……たしかリタとノエルだ」
ホルガーが、めずらしく口もとをゆるめた。
「旦那さま。よく、覚えておいでで。聖女様のなさるあの、とりとめのないお話を」
「……あれが毎度うるさいほど喋るからだ」俺は、目をそらした。「聞きたくなくても、耳にこびりつく」
「さようでございますか」
ホルガーの相槌は、やたらとなま温かかった。俺は咳ばらいをひとつして、話を続けた。
「それと、ホルガー。ひとつだけ、念を押しておく。——このことはスズランには言うな。一言も、だ」
「お知らせなさらぬのですか」ホルガーが、意外そうにまばたきをした。「聖女様がお聞きになれば、さぞお喜びになりましょうに。ご自分では手の届かぬところを、旦那さまが守ってくださると知れば——」
「よろこばない」俺は、首を振った。「あれはこういうのをいちばん嫌がる」
スズランは、人に借りを作るのを極端にいやがる女だ。自分のために誰かが金を出し、危ない橋を渡ると知れば、礼を言うより先に青くなる。そしてきっとこう言うのだ。「そこまでしていただく理由が、ありません」と。
理由なら、こっちにある。だがそれを口で説いたところで、あの聖女にはたぶん通じない。
それでいい。あれはなにも知らないまま、あのまっすぐな顔で明日もまた社の前に立っていればいい。今夜あれが眠れずに抱えていたものは、あれの知らないところで、俺たちが片づけておく。
「うちの聖女様は、こういうことをいちばん嫌がるからな」俺は言った。「だから黙って頼む。あれの知らないところで、な」
ホルガーは、深々と頭を下げた。そうして、顔を上げしなひとりごとのように、つぶやいた。
「……旦那さまも、隅に置けませんなあ」
「なんの話だ」
「いえ。こちらの話でございます」
老家宰はにこりともせずにそう言った。だが目尻のしわだけが、たしかに笑っていた。俺はそれ以上問いただすのは、やめておいた。やぶをつついてなにが出てくるか、わかったものではない。
窓の外坂の上の鳥居が月あかりのなかに、静かに立っている。ここからでは社の鈴の音は聞こえない。
それでもなぜだかちりん、と——澄んだ音がひとつ聞こえた気がした。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークと★での応援をいただけますと、更新の励みになります。
——お代は、銅貨五枚。……ではなく、ブックマークをひとつ、いただけたらうれしいです。




