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【幕間】母のお守り

王都のはずれ日の当たらない路地の奥に、私の生家はある。


 辺境からの長い旅を終え、大聖堂で報告をすませたその足で、私は母のもとへ帰った。ふところの、いちばん深いところ。ほかのどの荷とも分けて、しまってきたものがある。銅貨五枚の、小さなお守りだ。


「ただいま、母さん」


「おや……ドレンかい」母は、床からゆっくりと顔を上げた。


「ずいぶん、やせたねえ。ちゃんと、食べているのかい」


 帰るなり案じられるのは、いつも私のほうだった。腰から脚まで長く痛みに苦しんでいるのは、母のほうだというのに。若いころ女手ひとつで私を育てるために、無理に無理を重ねた、その体だった。都の高い祈祷所は私たちのような者には手が届かず、私は母の痛みひとつ取ってやれずに、二十年査察官の務めに明け暮れてきた。


「これを枕もとに」私は、お守りを母の手に握らせた。


「旅先で、手に入れた。……からだの痛みに、効くそうだ」


「まあ、お前。こんな私のために」母はしわだらけの手でその小さなものを、押しいただくように受け取った。


「どこの、教会のものだい」


「……北の、辺境だ」


 それ以上は、言えなかった。追放された聖女がくれたものだ、とはどうしても言えなかった。母はそれを大事そうに枕もとへ置いた。


 二十年、私は数えきれぬほどの祈祷所を見てきた。地方の聖女たちはみな私を恐れた。査察官の影を見れば、帳簿をつくろい祈りの数を水増しし、笑顔の裏でおびえた。信仰とは、そういうものだと思ってきた。恐れと体裁と隠しごとで固めた堅い殻。それを剥がしてごまかしを暴くのが、私の仕事だった。


 だがあの山の聖女は違った。査察官と知れても、恐れず隠さずなにもかもを見せた。会ったこともない私の母のために、両手を合わせて祈った。剥がすべき殻が、どこにもなかった。隠すものがなにひとつなかったからだ。あんな聖女に二十年で一度も、会ったことがなかった。


 それでも私は教会の人間だ。大聖堂はあの聖女に復帰命令を下した。あの人を都へ召し返す、と。私はそれにしたがわねばならない。


     *  *  *


 三日後ふたたび母を訪ねると、母は床の上で身を起こしていた。


「ドレン、ドレン。聞いておくれ」私の顔を見るなり、母は声をはずませた。


「あのお守りをね、こうして胸に当てて眠るだろう。するとじんわりぽかぽかとあったかいものが、体のなかに流れてくるんだよ。それが痛いところまで、すうっとしみていってねえ」


「痛みは、どうだ」


「それがねすうっと消えていくんだよ。嘘みたいに。もう何年も夜中に痛くて目が覚めていたのに、ゆうべは朝までぐっすりさ」


 母は、腰に手を当ててためしにゆっくり身をひねってみせた。


「ほらこんなこともできる。たった三日で、これだよ。……お前大したお守りだよこれは」


 私は、言葉を失った。ぱっと光ってたちどころに治す、都の聖女たちの祈りとは違う。じんわりとしみこんで、そのかわり二度とぶり返さない。あの聖女の、遅くて確かな祈り。それが、ほんとうにこの母の体に届いていた。


「ねえドレン」母は、お守りをそっと両手で包んだ。


「これを作ったのは、どれだけ偉大な聖女さまなんだろうね。会ったこともないこんな年寄りのために、こんなにあたたかい祈りを、込めてくださって」


「……ああ」


「お前はそういうお方の、お役に立っているんだね。大聖堂で、立派に。……母さんはそれがいちばんうれしいよ。お前は、幸せ者だ」


 私はうなずくことも首を振ることも、できなかった。ただ黙って、母の手を握り返すことしか。その手は三日前よりたしかにあたたかく、乾ききっていた指の先にまで血の通ったぬくもりが戻りはじめていた。


 母は勘違いをしている。私が仕えているのは、あの聖女ではない。私の仕える大聖堂は、いままさにあの聖女を、都へ召し返そうとしている。


——その命を運ぶ手先が、ほかならぬこの私だ。母の痛みを取ってくれたその人を、あの薄暗い部屋へ引き戻す側に、私はいる。それがあの人にとって吉と出るとは、とても思えなかった。


 燭台級。使えぬ聖女。教会の帳簿に、あの人はそう記されている。いちばん低い、使いものにならぬという評価とともに。だが都のどれほど高名な聖女も、私の母には指一本触れてはくれなかった。


二十年も放っておかれた母の痛みをたった三日で溶かしたのは、教会が「使えぬ」と切り捨てた、あの聖女だった。


 なにが、正しいのだ。


 祈りは束ねてこそ尊い、と司教たちは言う。個々の民に返せば祈りは軽くなると。私もどこかでそれを信じてきた。


 だが母のこのやわらいだ寝顔を見ていると。銅貨五枚の、この小さなお守りを見ていると。私が二十年守ってきたものが、足もとから音もなく崩れていくような気がした。いったいどちらが祈りを軽んじているのか。


 窓の外は、王都の夜だ。灯りは多いのにどこか冷えている。


 ふとあの辺境のたった一つの常夜灯を思った。深い闇のなかでいっそう小さくいっそう確かに見えた、あの灯りを。その灯りをともした人を、こちらへ返せと私の教会は言う。母を救った、その人を。


 ——なにが、正しいのか。私にはもうわからなかった。

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

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 ——お代は、銅貨五枚。……ではなく、ブックマークをひとつ、いただけたらうれしいです。

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