招かれざる巡礼(三) 「……よりによって、あの娘か」
十日後。王都の、光神の大聖堂。その奥の、薄暗い一室。
燭台の炎だけが長い机に並ぶ司教たちの顔を、ぼんやり照らしている。机の端で査察官のドレンが報告を述べていた。ふところが妙にふくらんでいるのは、辺境から抱えて帰った、行商ほどもある荷のせいだった。
「北部辺境、呪いの領。追放された聖女が、社を構えております。お守りの代は、銅貨五枚。日に数百の参拝。祭りの日には参道に町がひとつ、できておりました。——呪いの領が人の集まる地に、変わっております」
室内が、しんとした。使えぬ聖女を捨てるのに、ちょうどよかったはずの土地。それが、人の集まる地に。
「帳簿は、写してきたのだろうな」
ドレンは一瞬言葉に詰まった。潜入して写すはずが、逆に客としてもてなされ、朝から晩まで引き回された。査察官が、査察の相手にまる一日振り回されまったく写せなかった。——口が裂けても、言えなかった。
「……写しは持ち帰れませんでした」ドレンは、慎重に言葉を選んだ。写せなかった理由だけは、伏せた。「かの社は、帳簿を隠しはしません。望めば、いくらでも見せましょう。ただあまりに人の出入りが多く、写しを取るいとまが、ございませんでした」
司教のひとりが、けげんな顔をした。写しがない、とは。
「ですが数えることはできました。参拝は、日に数百。お守りは、ひとつ銅貨五枚。掛け合わせればあの社がひと月に集める銅貨の量は、おおよそ見当がつきます。これにおみくじ御朱印祭りの日の人出が、加わります」
その見積もりに室内がざわめいた。呪いの領の名もなき社がそれほどの銅貨をと。
下座の会計方が帳簿を指で追いながら、硬い声を上げた。
「その社が、当会計に影を落としております。北部一帯の、この一年の寄進額。——前年の六割まで。放置すれば隣の領へそのまた隣へ、波及いたします」
「祈りを返すだと」ひとりの司教が、うめいた。「納めた祈りを民に返す。——我々への冒涜だ」
「だが教義に反しているわけではない」別の司教が、低く言った。
その一言が、室内の空気を重くした。
* * *
「そもそも、なにゆえ祈りを民へ返す」
白い法衣の老司教が、心底から不可解だという顔で言った。「祈りは我らが預かり、束ねあまねく国へ配ってこそ尊い。個々の民に返しては——祈りが、軽くなるではないか」
「まさに」別の老司教が、深くうなずいた。
彼らの声に、迷いはなかった。悪だくみの顔では、なかった。祈りは教会が束ねてこそ尊いと、本気で信じている。だからあの社は正さねばならぬ、と。——自分たちが正しいと微塵も疑わぬ者ほど、始末に負えないものはない。
その議論のあいだ、机のいちばん奥。ひときわ深い影のなかに、その人はいた。
大司教ゲルニウス。この国の光神教会の、頂に立つ人だ。ひとことも発さず、ただ報告書に目を落としていた。細い指が羊皮紙の上をゆっくりと滑り——ある一点で、止まった。聖女の名の、記されたところだった。
ゲルニウスは、その名を指の腹でそっとなぞった。
「……よりによって、あの娘か」
低い声だった。だが静まりかえった室内には、はっきりと響いた。司教たちがいっせいに奥の影へ目を向けた。大司教がその聖女を知っている。単なる登録名ではない、なにかとして。——だがたずねることは誰にもできなかった。
ゲルニウスは、なにも説明しなかった。ただ報告書に添えられた、おみくじに目を落とした。その筆跡を、じっと見る。かすかに、その目が細められた。懐かしむのとも、憎むのともつかない目だった。
誰にも聞こえない声で、彼はひとことだけこぼした。
「……よりによって、あの筆の主か」
ほんの吐息ほどの、独りごとだった。なにを意味するのか、彼は誰にも明かさず、写しを他の紙のあいだにそっと戻した。
「復帰命令を、起案せよ」
室内が、ざわめいた。追放した者を、なぜいまさら呼び戻すのか。——だがゲルニウスは、それ以上語らなかった。急ぎで、と繰り返しただけだった。逆らうことを許さない、静けさだった。
* * *
同じ日の、夕暮れ。
大聖堂の裏手下級聖女たちの暮らす、東棟の片隅。
その狭い部屋で二人の若い聖女が、目を真ん丸にしていた。リタと、ノエルだ。二人の前には、ドレンがばつが悪そうに立っている。おみやげの山を、机の上にどさりと置いたところだった。
「これを……スズランさまが?」
ノエルの声が、震えた。リタは甘酒の瓶を両手でそっと持ち上げて、まるで宝物みたいに胸に抱いた。
「元気に、しておられるのですか。あの辺境で。本当に」
「……ああ」ドレンは、ぶっきらぼうに答えた。「元気すぎるほどだ。山じゅうを引き回された。人手が足りぬからお前たちを寄こせと、しつこく言うておった」
その一言にリタとノエルは顔を見合わせた。そしてどちらからともなく、ぽろぽろと泣きだした。
うれし泣きだった。あの人が追放されたあの日、二人はろくに見送りもできなかった。大聖堂の裏口から荷物ひとつで馬車に乗せられていく背中を、遠くから見ていることしか、できなかった。呪いの領へ送られたと聞いて、もう二度と会えないと、あきらめていた。それきり噂の一つも届かなかったのに。
「スズランさまらしい……あの人、いつもそうだった」リタが、涙をぬぐった。「自分がいちばん低い評価をつけられて、いちばんこき使われていたのに、私たちが泣いていると、パンを半分分けてくれて」
「朝の当番も、いつのまにか代わってくれてました。私お礼もちゃんと言えないまま……」ノエルが、しゃくりあげた。「行きたい。私辺境でも呪いの領でもどこでも。スズランさまのところなら」
「私も」リタが、うなずいた。「もう一度あの人といっしょに祈りたい」
「ミレイユにも早く教えてあげなきゃ」ノエルが、涙をぬぐって笑った。「あの子スズランさまがいなくなってから、ずっと気を張ってるんです。これを見たらきっといちばん大泣きします」
おみやげのなかに、三人ぶんのおみくじが、そっと添えられていた。リタとノエルとミレイユ。スズランが、あの子たちのために引いておいてくれたらしい。開いてみるとどれにも同じ言葉があった。『待ち人、来る』。手のなかのその小さな紙が、遠い山の上のあたたかさを、そのまま握らせてくれるようだった。薄暗い東棟の片隅が、ぽっと明るくなった気がした。
ドレンはその光景を、しばらく黙って見ていた。
半刻前まで座っていた、大聖堂の奥のあの薄暗い一室。祈りは束ねてこそ尊いと、司教たちが確信をもって論じていた、あの部屋。——それと、この涙とぬくもりに照らされた片隅と。どちらが、ほんとうの祈りの場所なのか。二十年査察官をやってきた男には、もう答えが出てしまっていた。だがそれも報告書には書けないことだった。
* * *
同じ夜。
北の辺境では雪のかわりに星が降っていた。
呪いの領と呼ばれた山の中腹に、ひとつあたたかな灯りがともっている。鈴の社の、常夜灯だ。まわりの闇が深いぶん、その灯りはいっそう小さくいっそう確かに見える。町の家々の窓も、ひとつまたひとつと灯を落としていく。鳥居の下ではアンとウンが今日も変わらず、参道を守って立っている。
みんな、明日も社へお参りに行くのだろう。銅貨五枚のお守りを買い、おみくじを引き笑って帰るのだろう。そのなんでもない暮らしが、今日も無事に一日終わろうとしていた。明日も同じ朝が来ると、誰もが当たり前のように信じて、眠りについていた。
その灯りは辺境の民の誰も知らなかった。遠い王都の薄暗い一室で、自分たちの暮らしが、いま数えられ報告され名を呼ばれたことを。招かれざる巡礼が山を訪れ、山を下りその足跡が大聖堂のいちばん奥まで、届いていたことを。
平和な灯りの上に、迫る影はまだ音もなく広がりはじめたばかりだった。
報告書を閉じた大司教は、窓の外——北の空へ目をやって、低くつぶやいた。
「……よりによって、あの娘か」
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——お代は、銅貨五枚。……ではなく、ブックマークをひとつ、いただけたらうれしいです。




