門前町、できました(三) 仏頂面の狛犬が飛ぶように売れて、山が元気を取りもどす
あんなにきっぱりと、みなの前で私を庇ってくださったのに。その帰り道、当主さまは、あの数字のことも、門前町のことも、それきりひとことも、口にはなさいませんでした。まるで、さっきの堂々たる威風など、はじめからなかったかのように。いつもの、むっつりとした無表情に、すっかりもどってしまわれたのです。
てっきり、あの場では領主として、ああ言ってくださっただけ。ほんとうのお気持ちまでは、この無口なお方から、読み取りようもありません。——私はそう思っておりました。ところが、です。
その日、屋敷にもどってから、そっと私に耳打ちしてくれたのは、家宰のホルガーさんでした。ホルガーさんはあたりに人のいないのを念入りにたしかめてから、こらえきれない、というふうに、ふっと目もとをやわらげたのです。
「聖女さま。ここだけの話でございますがな」
「はい?」
「閣下は今朝、あの報告書を。——三度、読み返しておいででした」
「……三度、ですか」
「はい。三度でございます。それはもう一字一句、それはそれは念入りに。しまいにはわたくしめに、こうお命じになりましてな。『ホルガー。この移住の願い出の数を、もう一度読みあげてみよ』と」
「まあ」
「ふだんは、あのように氷のごときお顔で。それでいて、あの数字ばかりは、たいそうたいそうお喜びでいらっしゃるのですよ。……いえ、これはけっして、閣下にはご内密に」
ホルガーさんはそう言って、しいっ、と口の前に指を立てました。私は思わず、口もとがゆるんでしまいました。あの氷みたいなお顔のうらで、あの無口な辺境伯さまが、今朝ひとりきり、しんと静まった書斎で、あの報告書を三度も三度も読み返していた。——なんだか、それを聞いただけで、私まで、じんわりとうれしくなってしまったのでした。
* * *
山にもどると、こんどはロッコさんが、土産物の相談を、もちかけてきました。
「なあ聖女さん。遠くから来た客ってのはな、帰りに、なにか買って帰りたいもんなんだ。この町でしか買えない、土産の品ってやつよ。ひとつ、あんたの知恵を、貸してくれや」
そうして、あれこれと知恵を出しあった末に、いくつかの土産物が生まれました。まずはマーサさんお手製の、鈴のかたちをした焼き菓子。ほんのり甘くて、お茶うけにぴったりです。それから、鈴の絵を焼きつけた素朴な湯のみ。これもなかなかの評判でした。
けれど、いちばんの人気は、なんといってもガンツさんのお弟子さんが彫った木彫りの狛犬です。ところが、これがおかしなことになりました。狛犬は二匹ひと組で、愛想よく笑っているアンと、むっつり口を結んだウン。ふつうなら笑っているアンのほうが売れそうなものです。ところが飛ぶように売れていくのは、なぜだか無愛想なウンのほうばかり。愛想よしのアンは、いつもしょんぼりと棚に売れのこってしまうのでした。
「聖女さま、この、ぶすっとしたほうを、ふたつおくれ」
「うちのは、この、への字口のを、三つだ」
「……解せません」私は、売れ残ったアンの木彫りを、そっとなでながら、首をかしげました。「どうして、みなさん、ぶすっとしたウンのほうを、選ぶんでしょう」
「さあねえ」と、マーサさんが、からから笑います。「そのぶすっとしたのが、逆に、なんとも、味があるんじゃないのかい。にらんでるようで、ほんとは、気のいいところがさ」
当のウンは、売れ残ったアンの木彫りの、そのとなりで、あいかわらず、むっつりと、参道をにらんでおりました。……なんだか、ふくざつな気持ちです。
そんな土産物のなかで、ひとつだけ、私が、どうしても首を縦にふらなかったものが、ありました。ロッコさんが、こう言い出したときのことです。
「なあ、いっそ、お守りも、この土産の棚に、並べちまえよ。そりゃあもう、飛ぶように売れるぜ。銅貨五枚だ、いくつあっても足りゃしない」
「いいえ。それだけは、できません」
私は、めずらしく、きっぱりと、言いました。
「お守りは、お参りした人だけです」
「……お参りした、人、だけ?」
「はい。お守りというのは、ちゃんとこの社にお参りして、手を合わせた、その人にお渡しするものなんです。お参りもしないで、土産物みたいに棚からひょいと持って帰れるお守りなんて。それはもう、お守りでもなんでもない。ただの、鈴のついた布きれです」
祈りというのは、祈った、その人に返るもの。だからお守りだけは、どんなに売れそうでも、参道の棚にはけっして並べません。ロッコさんは、へえ、と目をまるくして、それから、やれやれ、というふうに、にやりと笑いました。
「……あんたって人は。ほんとに、金勘定が、上手なんだか、下手なんだか。わからねえ人だよ」
* * *
その日の夕方、私はふと思い立って、山の上の泉まで、のぼってみることにしました。
社よりもさらに上、木立をぬけたところに、「静かの泉」と呼ばれる小さな泉があります。私がこの山に来たばかりのころには、水はどんよりと濁って、いまにも涸れてしまいそうな、それはそれはさびしい泉でした。ところが、です。ひさしぶりにたずねてみて、私は思わず声をあげました。
「……まあ。すっかり、きれいになって」
泉の水は、底の小石までくっきりと見えるほど澄みわたっていました。水かさも前よりずっとふえています。そのうえ水ぎわには、いつのまにか、やわらかな若草まで、ちらほらと芽ぶいているではありませんか。あんなに涸れかけていた泉が、まるでゆっくりと息を吹き返すように、すっかり生き返っていたのです。
その泉のふちで、狛犬のアンとウンが、ちょこんとならんで、じいっと水面をのぞきこんでいました。二匹そろって、こてん、と首をかしげます。それからふしぎそうに顔を見あわせて、また、こてん、と、こんどは反対に首をかしげました。水のなかに、なにか、めずらしいものでも映っているのでしょうか。
「なあに? どうかしたの?」
私がしゃがんで声をかけても、二匹はふしぎそうに水面を見つめたまま、やっぱり、こてこてと首をかしげるばかり。その、まんまるな目のかわいらしいこと。私はくすくす笑いながら、その小さなふたつの背中を、両手でそっとなでてやりました。澄んだ水の面に、夕日がきらきらと躍っています。何ひとつなかった呪いの山が、こうして少しずつ、水も草も木も、元気を取りもどしていく。それが私には、ただただ、うれしいことでした。
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