【幕間】寝ずの番
「ようやく、でございますな」
ホルガーが、めずらしく、ほくほくとした顔で言った。
「ようやく、あの聖女さまに、それなりの値打ちのものを、受け取っていただけました」
スズランは、これまで、俺の差し出すものを、何ひとつ受け取らなかった。金貨も、宝石も、絹も。そのことごとくを、あの、まっすぐな目で突き返してきた。それが今日、生まれて初めて。——朱の絵具、ひとつを。
「あれほど鮮やかな朱だ」と、俺は言った。「貴族でも、そう手に入るものではあるまい」
「さようでございます。あの小さな絵具ひとつで、聖女さまに一年のあいだお渡しするお給金の、幾倍もの値打ちがございましょう」
幾倍、か。
「して。あれを、どうすると」
「なにやら、あの朱で、印を捺すのだとか。御朱印、と申すそうで。参拝の証に、一枚、また一枚と、お配りになるおつもりのようです」
「配る」俺は眉を寄せた。「——いくらで」
ホルガーは、少し間を置いてから、答えた。
「……銅貨、三枚、とか」
俺は、しばし、黙った。
銅貨三枚。あの、給金の幾倍もの朱を、たっぷりと使って。それを、たかが、銅貨三枚で。
「……一枚こしらえるたびに、赤字だな」
「さようでございますな」
「——だが。言うなよ」
ホルガーの手が、止まった。それから、その、しわ深い顔が、ゆっくりとほころんだ。
「もちろんで、ございます」
スズランは、値打ちなど知らなくていい。知れば、きっと突き返す。もったいない、私にはすぎたもの、と。——スズランは、俺の気持ちは受け取らないくせに、値の張るものは、なおのこと受け取らない。だから、知らずにいるのが、いい。給金の幾倍だろうが、赤字だろうが、かまわない。あれで、彼女が笑うなら、それでいい。
……なぜ、そこまで、と。問われても、俺にも答えようがない。
膳を下げかけて、ホルガーが、ふと思い出したように言った。
「そういえば、閣下。聖女さまは、今宵は屋敷へお戻りにならぬそうで」
俺は、顔を上げた。
「なに」
「なにやら社にこもられるとか。あの御朱印の字が、まだ意にそぐわぬそうで。ひと晩じゅう、練習をなさると」
社に。ひとりで。ひと晩。
あの山は、もとは呪われた山だ。人が寄りつかなかった山だ。夜ともなれば、獣も出る。たちの悪い者も、迷いこむかもしれない。それを、スズラン、たったひとりで。
気づけば、俺は立ち上がっていた。
「心配だな。——少し、出かけてくる」
「……閣下」
ホルガーが、なにか言いかけた。俺は聞かなかった。黒衣を取り、外へ出る。足もとに、いつのまにか、ウンがついてきていた。むっつりと、俺を見上げている。
「……来るか」
ウンは、答えない。ただ、俺の隣を、のっそりと歩きはじめた。
* * *
社の灯りが、見えた。
夜の山道を登りきると、授与所の小さな窓に、ぽつりと灯が点っている。近づけば、障子に、影が映っていた。筆を握った、小さな影。書いては、丸め。書いては、丸め。——スズランは、まだ、やっている。
俺は、鳥居の脇の闇に身を寄せた。ウンが、その足もとに伏せる。
ここから見張る。ただ、それだけのことだ。獣が来れば、追う。たちの悪い者が来れば、斬る。領主として、当然のつとめだ。——そう、自分に言い聞かせた。
夜は、長かった。
ふくろうが鳴いた。風が、木々を鳴らした。そのたびに、俺は闇に目を凝らした。何も、来はしなかった。ただ、あの小さな窓の灯りだけが、消えずに燃えていた。ときおり、細い声が聞こえた。「……ちがう」「もう、いちど」。ひとりごとだ。スズランは、こんな夜中に、たったひとり、たかが字の練習に、こうまでする。
俺は、知っている。あの朱が、どれほどの値打ちか。スズランは、知らない。彼女が明日、あの朱で、心をこめて捺す一枚が、銅貨三枚にしかならないことも俺は知っている。——だが、スズランには、そんなことはどうでもいいのだ。ただ、あの老人が喜ぶように。ただ、たった一枚を、うつくしく。そのために、ひと晩を惜しみなく燃やす。
……つくづく、たいした聖女だ。
こんな人のために、俺は、いったい何をしてやれるのだろう。金も、絹も、宝石も、スズランはいらないと言う。俺の手も、この気持ちも、受け取ってはくれない。与えたいものは、山ほどあるのに。そのどれも、彼女の前では、行き場をなくす。——ならば、せめて。スズランが、こうして、たったひとつの祈りに心を燃やしている、この一夜くらいは。その背を、だれにも脅かされないように。せめて、それくらいは。俺に、させてくれ。
いちど、スズランが、窓のそばへ来た。凝りをほぐすように、細い肩を、とんとんと叩いている。すぐ、そこだ。声をかければ、届く。——だが、俺は動かなかった。声をかければ、彼女はきっと驚くだろう。なぜこんなところに、と。そうして、また、あの調子で言うのだ。わざわざ、いらしていただかなくても、と。——ならば、いっそ、知られないほうがいい。闇のなかから、ただ、あの灯りを見ている。俺には、それで、じゅうぶんだった。
やがて、東の空が白みはじめた。窓の灯りが、ふっと消えた。ようやく、意に適う一枚が、書けたのだろう。俺は、闇から身を離した。
スズランは、俺がここにいたことを、知らない。給金の幾倍もの朱を、俺が贈ったことも。今宵、俺が寝ずに見張っていたことも。——何ひとつ、知らずにいる。
それで、いい。
スズランは、俺が差し出すものは、受け取らない。だが、俺が勝手にやっていることまでは、突き返せないだろう。金も、宝石も、いらない。ただ、この山に通う。ただ、この灯りを、遠くから見ている。——今は、それだけでいい。
俺は、ウンを従えて、白みゆく山道を下りはじめた。
ひんやりとした山の空気がやけに心地よく感じた。




