御朱印帳の旅人(三) 「よそへは行かん。うちの社だけでいい」
その日から「御朱印、はじめました」の小さな木の札を、授与所に立てておいたところ。これがまた、たいそうな評判になりました。御朱印を目当てに、遠くの町からわざわざ山を登ってくる人が、どんどん、ふえていったのです。
「聖女さま。うちのじいさんの分も、一枚たのむよ。腰を痛めて、山にゃ登れんでな」
「まあ。では、おじいさまの分も、心をこめて。——はい、どうぞ。早く、よくなられますように」
「なあ、聖女さま。おれは、嫁にいった娘の分だ。丈夫な子を授かるように、って、書いといてくれや」
「ふふ。御朱印は、願いごとを書くものではないんですけど。……特別に、お祈りだけは、こめておきますね」
なかには、まっさらな帳面ごと、うちで買っていく人もいます。一枚一枚、心をこめて書くものですから、なかなか骨は折れますが。それでも、朱色の鈴を、ぽん、と押すたびに、その人のうれしそうな顔が見られるのは、なんとも、しあわせな仕事でした。
なかには、はるばる三日も歩いて、御朱印ひとつのために登ってくる人までいました。聞けば、ヨシュさんが旅の先々で、この鈴の社の話を、それはもう楽しげに触れまわっているのだそうです。あの二冊の帳面が、いまごろどこか遠い町で、新しいお客さんを、この山へと呼んでくれている。——そう思うと、私はまた、胸のおくがあたたかくなるのでした。そうして日に日に、私の字もずいぶんと上達していきます。ある日ガンツさんが、御朱印の長い列をながめながら、しみじみとこう言ったのです。
「……お社さま。あんたの字も、ずいぶんさまになったもんだ。そういやあ、はじめのあの、みみずがのたくったような一枚は。いまやこうして客が押しかけるとなりゃあ——たいそうな、希少品だな」
私はぎくりとしました。あの下手くそな書き損じの山は、たしか何枚か、そのまま小屋の隅に残っていたはずです。
「……ガンツさん。あれは、ぜんぶ回収します」
「おっと、遅いね。一枚、こっそりもらっといたよ」
「か、返してくださいっ!」
あわてる私を尻目に、ガンツさんは、それはもう愉快そうに、大きな肩を揺すって笑っていました。まったく、この人ときたら。私は頬をふくらませながらも、なんだかつられて、ふふ、と笑ってしまったのでした。 * * * その晩は、十日にいちどのかけ直しの夜でした。私がいつものように祈りを重ねおえると、当主さまがめずらしく、自分からふところに手を入れて、一冊の真新しい帳面を、すっと差し出したのです。
「これに。——書いてくれ」
まあ。私は目をまるくしました。それはまぎれもなく、御朱印帳です。しかもまっさらな、下ろしたてのもの。この無口な辺境伯さまが、いったいいつのまに、こんなものを用意していたのでしょう。きっと、御朱印を目当てに登ってくる客の様子を、いつもの視察のついでに、じっと見ていたのでしょう。そうしてこっそり、自分のぶんの帳面を、どこかであつらえていた。——縁結びの棚を二日も念入りに"視察"なさったお方ですから、今度もまた、なにか思うところがおありなのかもしれません。
「はい、銅貨三枚になります。ところで、当主さまも、御朱印を集めていらっしゃるんですか」
「……いや」
当主さまはふいと目をそらしました。私はくすりと笑って、その一頁目に、いつものように御朱印を書かせていただきます。「鈴の社」。朱色の鈴。そして日付。——けれどそこで、私はふとあることに気がついて、顔をあげました。
「当主さま。この帳面、一頁目がうちの社なのは、いいのですけれど。……ほかの聖堂の御朱印は、集めなくてよろしいんですか」
ところが当主さまは、こともなげに、こうおっしゃったのです。
「……よそへは、行かん。うちの社だけで、いい」
「うちの社だけ。……あの、当主さま。それではもう、御朱印帳とは言えませんよ。ひとつの社にしか行かない御朱印帳なんて。それはただの——通い帳、では」
言いかけて、私は口をつぐみました。当主さまが、なにか言いたげに、それでいてけっして目を合わせようとせずに、じっとこちらを見ていたからです。しばらくの沈黙のあと、当主さまはぼそりとひとことだけ、こうおっしゃいました。
「……それで、いい」
よその社には行かない、うちの社にだけ通う、そのためのたった一冊の通い帳。——なるほど。三日にあげず登ってくださるほど、この社を気に入ってくださったのですね。私はなんだか、うれしくなりました。
「ありがとうございます。——では、この通い帳がいっぱいになるまで。どうぞ末永く、通ってくださいね」
「……ああ」
当主さまはその帳面を、まるでこわれ物ででもあつかうように、そうっと黒衣のふところ深くへしまいこみました。その耳の先がまた、ほんのり赤かったのを。私はいつものように、沈みかけた夕日のせいだと思ったのでした。




