御朱印帳の旅人(二) 亡き妻の分も、同じ証を二冊に。「また来年、お参りに」
老人はその日、しばらく社の縁台で休んでいくことにしたようでした。私はあたたかい蜜湯を一杯お出しして、そのとなりにそっと腰かけます。
「わしはな、ヨシュ、というのよ」
老人は、ぽつり、ぽつりと、身の上を話してくれました。
「若いころは、遠い町でな。こわれた鍋や、釜や、桶を繕う、しがない直し屋よ。連れ合いと、二人きりの、つましい暮らしでな」
「お子さんは」
「恵まれなんだ。じゃが、それでも、二人、寄りそって、笑って生きてきた。……底に穴のあいた鍋をな、二人して、額を寄せて、覗きこんでな。とんとん、と叩いて、繕って。その鍋が、また、なみなみと水を湛えるたびに。あれが、まるで、我がことのように、喜んでなあ」
ヨシュさんは、そんな昔ばなしを、まるで昨日のことのように、いくつもいくつも、話してくれました。
「そうしていつか、年をとって、暇ができたら。二人で、諸国の聖堂を、のんびり巡ろうね、と。それが、夫婦の、長年の、約束でな。——じゃが」
ヨシュさんは、蜜湯の椀を両手で包んで、ゆっくりと目を細めました。
「その、いつか、が来る前に。——あれは、ひとあし先に、逝っちまってな」
私はそっと息をのみました。けれどヨシュさんの横顔は、ちっとも湿っぽくはありません。むしろどこかあたたかく、静かにほほえんでいるようでした。そうしてヨシュさんは、背中の旅嚢のなかから、もう一冊まったく同じ古びた帳面を、取り出したのです。
「これはな。あれの、分だ」
二冊の帳面には、まるきり同じ場所の同じ証が、一枚のこらず、おなじようにならんでいました。ヨシュさんは行く先々で二冊、寸分たがわぬ証をいただいているのです。自分の分と、亡くなった連れ合いの分と。二冊はどちらも同じように角がすり切れていましたが、片方のほうが、ほんの少しだけ、手ずれでつやが出ていました。きっとヨシュさんは、夜ごと、連れ合いの分の一冊を、なんどもなんども開いては、そっとなぞってきたのでしょう。
「わしがこの足で一歩あるけば、あれも一歩あるいたことになる。わしが二十三箇所めぐれば、あれもちゃんと、二十三箇所めぐったことになるのよ。……のんびり巡ろうっていう、あの遠い遠い約束をな。いまごろこうして、二人して果たしとるのさ」
私はなんにも言えませんでした。こういうとき、気のきいた慰めのひとつも言えたらいいのでしょう。けれど、このあたたかな旅の話に、私のへたな言葉なんてちっともいりません。ただ黙って、私はもう一冊のほうの帳面にも、まったく同じ御朱印を書かせていただきました。「鈴の社」。朱色の鈴の判子。そして——寸分たがわず同じ、その日の日付を。
書きあがった二冊目をお返しするとき、ヨシュさんはお代を、とふところに手を入れました。けれど私は、そっとその手を押しとどめたのです。
「——こちらの一冊は、お代はいただけません」
「なぜ、じゃ」
「だって、お連れさまの分ですもの」
私はにっこりと笑いました。
「お代は、ご本人からいただかないと。……次にお二人そろって、いらしたときに。そのときに、ちゃんと二人分、頂戴しますね」
ヨシュさんはきょとんとして、それからくしゃくしゃの、それはもういい笑顔で、笑ったのでした。
* * *
ひとしきり話しおえると、ヨシュさんは社のお守りをひとつ、買っていってくださることになりました。銅貨五枚の、あのお守りです。私がお守りを手わたすと、ヨシュさんはふと思い出したように、こうたずねました。
「そういえば聖女さま。この、お守りというのは。どれくらい、もつものかね」
「はい。うちのお守りは——一年で、効き目が切れます」
私があっさりそう言うと、ヨシュさんは少しおどろいた顔をしました。それもそのはず、ふつうお守りというのは後生大事に、何年でも持ちつづけるものと思われていますから。一年で切れるだなんて、まるで欠陥品みたいに聞こえたのでしょう。
「一年で切れる。……ほう。それは、切れたら、どうなるのかね」
私はまっすぐにヨシュさんの目を見て、お答えしました。
「——また来年、お参りにいらしてください。新しい祈りを、込め直します」
しん、と。ヨシュさんはしばらく、私の顔を見つめていました。それからふ、と目もとをゆるめて、おかしそうに、けれどどこかうれしそうに、笑ったのです。
「……一年後の、約束か」
「はい」
「はっはっは。こいつは、いい。——この歳になるとな、聖女さま。一年先の約束がある、というのが。なにより、いちばんの薬なのよ」
一年先の約束が、いちばんの薬。——私はそのことばを、胸のおくにそっとしまいました。うちのお守りが一年で切れるのは、手抜きでも欠陥でもありません。切れるからこそ、人はまた来年、この山へ登ってくる。そうして「また来年」という小さな約束が、ひとつ生まれる。教会にいたころ、一度きりのお代で売って、それきりだったお守りには、ついぞなかった祈りのかたちです。——来年もきっと元気で、また会いましょうね。それはきっと、私の神様の、いちばん得意な祈りなのでしょう。
* * *
と。縁台の隅でさっきから、この話をにやにやと聞いていた人がひとり。あの行商人のロッコさんです。この日もちゃっかり蜜湯を飲みながら、油を売っていたのでした。ロッコさんは空になった椀をこつんと置くと、したり顔でヨシュさんに話しかけました。
「なあご老人。あんた、いま聖女さんに、うまいこと丸めこまれたのが、わかるかい」
「……はて」
「いいかい、よぅく聞きな。この聖女さんはな——」
ロッコさんはにやりと笑って、びしっと私を指さしました。
「"また来る理由"を売ってるんだ。一年で切れる、だからまた来年来い、ってな。うまいだろう? 一回ぽっきりで終わる客なんて、この店にゃひとりもいやしない。おれはあちこちの町で、いろんな商いを見てきたがね。こんなにうまい商売、王都のどんな大店だって、やっちゃいないよ」
まあ、人ぎきの悪い。私はぷう、と頬をふくらませました。
「ロッコさん。商売、商売って。私はそんなつもりじゃ、ありません。ちょっとだけです」
「わはは、ちょっとはあるのかよ。わかってるって。あんたにその気がないのは、な。——だからこそ、いっそう性質が悪いのさ」
そう言って、ロッコさんは、ヨシュさんの手もとの御朱印を、ちらり、と見やりました。それから、なにを思ったのか、ふっと目もとをゆるめて、にやりと笑ったのです。
「……へえ。聖女さまは、ずいぶんと、愛されてるんだねぇ」
「? はい。みなさんに、よくしていただいて。ありがたいことです」
私がきょとんと答えると、ロッコさんは、やれやれ、と肩をすくめて、それ以上はなにも言いませんでした。かわりに、それまで黙って聞いていたヨシュさんが、ぽつりと口をはさみます。
「……商売っ気のない社ほど、ふしぎと、人が集まるものよ。その"また来年"という約束がな、この歳のわしには、どれほど、ありがたいことか」
私はなんだか、狐につままれたような気持ちで、二人の顔を見くらべるばかりです。——けれど、私がほんとうにうれしいのは、積みあがる銅貨のことなんかじゃ、ないのです。一年で切れるお守りが、去年ここで会ったあの人を、来年もう一度、この山へ連れてきてくれる。その、たった一度の再会がたのしみで、私はきっと、このお守りを作りつづけるのでしょう。ヨシュさんは、そんな私のとなりで、なぜだかうんうんと、しみじみ、うなずいていたのでした。あのうなずきに、どんな思いがこもっていたのかは、商売の話ばかりだったこのときの私には、まだ半分も、わかっていなかったのです。




