御朱印帳の旅人(一) 「あんたの社の証を」——古びた帳面に、御朱印を
その老人が私のほうへ差し出したのは、とほうもなく古びた一冊の帳面でした。表紙は擦り切れ、角は丸くなり、幾度も雨に濡れては乾いたような、それはそれは年季の入った帳面です。背には細い革の紐で、小さなお守りのようなものがいくつも結わえつけられていました。色あせた布きれや木の札やすり切れた組紐、そのどれもがみな、遠い土地の名も知らぬ神様たちのしるしのように見えます。まるでこの一冊が、老人の歩いてきた長い長い旅路そのものであるかのようでした。
老人はしゃがれた、けれどどこかあたたかな声で、こう言いました。
「——あんたの社の証を。これに、書いてはくれんかね」
証、ですか。私が首をかしげると、老人はうんうんとうなずいて、ゆっくりと話してくれました。自分はもう長いこと、諸国の聖堂を巡り歩いているのだそうです。そうして訪れた先々の教会で、その証をこの一冊に書き集めているのだ、と。
「あちこちの教会をたずねてはな、聖女さまに、こうして書いていただくのよ。聖堂の名と、その日の日付を、墨でな。この帳面はな、わしの巡ってきた道の、いわば足あとの地図なのさ」
足あとの地図。——そのひとことを聞いたとたん、私の前世の記憶が、ぱっと明るくはじけました。
御朱印。そうです、御朱印です。神社やお寺にお参りした証として、墨と朱で社の名と日付を書き入れていただく、あの一枚のこと。私の育った山里のお社でも、旅の人がうやうやしく帳面を差し出しては、御朱印をもらって帰ったものでした。それは参拝のいちばん確かなしるしであり、歩いてきた祈りの道を一歩また一歩と墨で留めておく、あのうつくしい習わしです。旅の人にとっては、その一冊が、これまで歩いてきた祈りの日々そのもの。まさかこの遠い辺境の地で、前世となつかしい同じものに巡りあえるなんて。私は胸がじいんと熱くなって、その古びた帳面を両手でそっと押しいただきました。
「——わかりました。この鈴の社の証、心をこめて書かせていただきます」
「いやあ、よかった。ありがとうよ、聖女さま」
老人は、深いしわをいっそう深くして、ほっと笑いました。
「教会によってはな、そんな見慣れぬ願いは知らん、と、けんもほろろでな。門前払いも、一度や二度じゃ、ないのよ。それに、あんたのような、神社、というのは。諸国をくまなく歩いてきた、このわしでも、生まれて初めてじゃ」
「まあ。そんな、遠くから、わざわざ」
「遠い遠い噂をな、たよりに、な。それだけを頼りに、この辺境の山まで、はるばる登ってきたのよ」
旅の人の、たったひとつの、ささやかな願い。それを無下にしない社でありたいと、私はあらためて、そう思ったのでした。
* * *
さて、書かせていただきますと大見得を切ったのは、いいのですが。御朱印というからには、ただ社の名を書きつけるだけではいけません。せっかくお参りくださった方の胸に、末永く残るような、そういう一枚にしたいものです。
私はさっそく、意匠を考えました。そうして、ちょうど石段の手直しに来ていたガンツさんを、つかまえたのです。
「ガンツさん。この、鈴のかたちを、小さな判子に彫っていただけませんか。木で、これくらいの大きさで」
「判子だと?」
ガンツさんは、私の描いた下絵を、太い指でつまみあげました。
「……ふうん。社の名を墨で大きく書いて、このわきに、鈴を朱でぽんと捺す。それで、しまいに日付、か」
「はい。さすが、のみこみが早い。——どうです、りっぱな御朱印になりそうでしょう?」
ところがガンツさんは、その日付のところを、太い指で、とんとん、と叩いて、けげんそうに、太い眉をひょいと持ち上げました。
「……日付が要るのかい。社の名だけで、じゅうぶんだろうに」
「いいえ。この日付が、いちばん大事なんです」
私は筆を持つ手を止めて、にっこりと笑いました。
「だってこれは、その日のあなたがたしかにここへ来た、という証ですから。同じ人が来年またお参りに来たら、そのときはまた別の日付を書きます。そうやって、いつ来たかがぜんぶ、この一冊に残っていくんです。御朱印はね、名前の証じゃなくて、その日の証なんですよ」
ガンツさんはふうんとうなって、それ以上はなにも言いませんでした。——ところが、いざ試しに一枚書いてみたところで、とんでもないことが発覚したのです。私の字が、あんまりにも下手くそだったのでした。
「鈴」の字は右と左がけんかしているみたいにゆがみ、「社」の字はまるで酔っぱらいがよろけたよう。前世でも字だけはどうにもうまくならなかったのを、私はすっかり忘れていたのです。ガンツさんはその一枚をじいっと見つめて、それからこらえきれずに、ぶはっと噴き出しました。
「ぷっ……く、くくっ。お社さま。あんた、あれだけたいそうな御託を並べたわりに……こりゃあ、みみずがのたくったあとかい」
「わ、笑わないでくださいっ!」
けれど、ガンツさんの笑いはなかなか止まりません。しまいには目のふちに涙までためて、「いや、悪い悪い」と手をふる始末です。悔しいやら、恥ずかしいやら。私は真っ赤になって、その書き損じをぐしゃぐしゃに丸めてしまいました。——こうなったら、意地です。誰に笑われたって、りっぱな御朱印を書けるようになってみせます。
それに、もうひとつ。肝心の、朱色の絵具が、社にはひとつもありませんでした。この鮮やかな朱ばかりは、田舎の辺境では、どうにも手に入りません。私はひるまのうちに、いちど屋敷へ下りて、当主さまに、たずねてみることにしました。
「当主さま。朱色の絵具は、どこかで手に入らないものでしょうか。御朱印を、朱く捺したいのです」
「……朱の、絵具か」
当主さまは、なんてことのない顔で、こうおっしゃいました。
「——屋敷に、ある。いくらでも、持っていけ」
「まあ。よろしいのですか」
ほどなく、ホルガーさんが、小さな絵具の入れ物を、うやうやしく運んできてくださいました。
「昔このお屋敷においでだった、絵師の、使い残しにございます。どうぞ、お気がねなく、お使いくださいませ」
こうして、墨と、木の判子と、朱と。御朱印の道具は、どうにか、そろいました。
そして、私の、みっともない御朱印の猛練習が、はじまりました。ヨシュさんには、ふもとの宿で一晩、待っていただくことにして。その夜は、屋敷へも下りず、社に泊まりこんで。一睡もせず、夜どおし「鈴の社」と書いては捨て、書いては捨て。書き損じの半紙が膝の高さまで積もり、東の空がしらじらと白みはじめるころには、私の字もどうにか、人さまにお見せできるくらいには、なっていたのでした。
* * *
練習の甲斐あって、私はいよいよ、あの老人の帳面に最初の御朱印を書かせていただくことになりました。
朝いちばんの澄んだ空気のなか、私は帳面を開き、墨をたっぷり含ませた筆を、すうっとおろしました。「鈴の社」。ゆっくりと一画また一画、心をこめて書いていきます。それから朱色の鈴の判子をぽんと押して、最後にその日の日付を、そっと書き添えました。書きあがった一枚を、私は両手で捧げるようにして、老人へお返しします。
老人はそれを受け取ると、まず、目を大きくみはりました。
「……ほう。これは、朱の、印かね。こんなものは、どこの聖堂でも、見たことがない」
しわだらけの指で、その朱色の鈴を、なんども、なんども、めずらしそうになぞります。ほかの聖堂では、みな墨で名を書きつけるばかりで、こんな色のついた印を捺すところなど、ひとつもなかったのでしょう。老人はしばらくのあいだ、まじまじとその一枚を見つめて、それからふうと深い息をついて。——その古びた帳面を、まるで大切な宝物ででもあるかのように、そっと胸に抱きしめたのです。
「……ありがとう。これで」
老人の声が、かすかに震えていました。
「これで、二十三箇所目だ」
二十三箇所。私は思わず目をみはりました。この一冊のなかには、そんなにもたくさんの聖堂の証が集まっているのですか。いったいどれほどの道のりを、この人はその足で歩いてきたのでしょう。旅の途中には、足を痛めた日もあったでしょうし、雨に降られて難儀した夜もあったにちがいありません。私の書いたたった一枚の御朱印が、この老人にとっては長い長い旅の二十三個目の、かけがえのない一歩なのです。——そう思うと、なんだか私まで、胸がいっぱいになりました。
たった一枚の、墨と朱の跡。けれど、この老人にとっては、それが、世界にふたつとない道しるべなのです。この一枚の値打ちを決めるのは、きっと私ではなく、それを胸に抱く、この人自身なのでした。




