縁結びの神様(三) 「良縁をお探しなら」「——間に合っている」
それから数日が経ったころ。
私は茶屋の前を通りかかって、あら、と足をとめました。窯の前でパンを焼くリナさんの胸もとに、小さな赤い紐の木札が、ちょこんと揺れていたのです。あの縁結びの、片割れでした。
そうしてテオくんのお皿には、いつのまにか三つのパンが、そっと四つに。しかもそのうちのひとつだけ、ほかよりひとまわり大きく、こんがりときつね色に焼けているのです。だれが見てもわかる、あからさまなひいきでした。
けれど、縁台にいる人たちはみんな、それを知っていて。そのくせ誰ひとり、なにも言わないのでした。ただにこにこと、あたたかい目で、若い二人を見守っている。——これが、この参道の人たちの、やさしさなんですねえ。いいえ、たったひとりだけ、こっそり口を出した人がいました。隠居のおじいさんが、通りすがりにテオくんの背中を、どん、と叩いて、「若いのう」と、しわだらけの顔で笑ったのです。それだけで、縁台じゅうが、どっと、あたたかい笑いに包まれました。テオくんは耳までまっ赤にして、リナさんは窯の陰にかくれてしまって。それでも二人は、まんざらでもなさそうに、口もとをゆるませていたのでした。
その日の夕方。売上を数える私のところへ、マーサさんがふらりとやってきて、にやりと笑って、こう言いました。
「お社さま。あんたのとこの、あの縁結びって商品。……ずいぶん、よく効くじゃないか」
私はにっこりと、胸を張ってお答えしました。
「でしょう」
——もっとも。ほんとうに効いたのは、お守りの力なんかでは、ないのです。ひと月のあいだ毎朝かよいつめて、それでも『毎度どうも』しか言えなかったテオくんが、たった一度だけ、ふりしぼった、あの不器用な勇気。
あれが効いたのです。お守りはただ、その勇気の背中を、ほんのちょっと押しただけ。神様は、糸を結ぶことしかできません。その糸をたぐって歩きだしたのは、テオくん自身の、二本の足でした。——けれど、そのことは、まあ。マーサさんには内緒にしておきましょう。
* * *
さて。この縁結びのお守りには、じつはもうひとり、思いがけないお客さまが、いたのです。
その日の午後、社の授与所にあたらしく縁結びの棚をこしらえ、赤い紐の木札をきれいに並べておいたところ。——夕暮れどきになって、その棚の前に、見慣れた黒い影がひとつ、ぬうっと立ちました。
言うまでもありません。当主さまです。今日も三日にあげずの、視察に登ってこられたのでした。
当主さまはその縁結びの棚の前で、腕を組んだまま身じろぎもせず、じいっと赤い紐の木札を見つめています。ひとつ、ふたつ、と数えているのか、それともただ、ながめているのか。とにかく、長いのです。参道を行き交う参拝客が、みんなちらり、ちらりと、その黒衣の背中をうかがっていきます。氷の辺境伯さまが、縁結びの棚の前で仁王立ち、というのは、なかなかお目にかかれない光景ですから、無理もありません。
「おい、見ろよ。閣下が、縁結びの棚の前で……」「しっ、声が大きい。聞こえでもしたら、凍らされるぞ」——参拝客たちは、遠巻きに、そんなことをこそこそ、ささやき合っています。けれど当の当主さまは、そんな噂などまるで耳に入らぬ様子で、ただじっと、赤い紐の木札を、見つめつづけているのでした。
お供でひかえていたホルガーさんが、見かねたように、そっと当主さまに耳打ちしました。
「……旦那さま。もしお気に召したのでしたら、ひとつ、お求めになっては、いかがでしょう」
当主さまは、ぴくりとも表情を変えず、即座にお答えになりました。
「——視察だ」
視察。なるほど、視察でしたか。それにしても、二日つづけて、こんなにも念入りにながめていかれるのですから、きっとどこか、お気に召さないところが、あるにちがいありません。私は、はて、と首をかしげて、棚の前まで、とことこ歩いていきました。
「当主さま。この縁結びの棚、なにか不備でも、ございましたか。それとも、品ぞろえが、足りませんでしょうか」
「……いや」
当主さまは、ふいと顔をそむけます。私は、うーん、と考えこんで、それから、ふと、いいことを思いつきました。
「あ。もしかして、当主さま。——どこかに、良縁を、お探しですか」
その、とたん。
「——間に合っている」
食い気味でした。私が言い終わるより早く、当主さまは、ぴしゃりと、そうおっしゃったのです。私は、きょとん、としました。
「……? 間に合っている、といいますと。あの、在庫でしたら、まだたっぷり、ございますよ。赤い紐のも、青い紐のも、よりどりみどりで」
「……そういう、意味では、ない」
当主さまは、なぜだか、深々と、ため息をつきました。そうしてそのまま、ぷいと横を向いてしまわれます。氷のように白い耳の先が、沈みかけた夕日のせいか、ほんのり赤く見えました。——はて。良縁は間に合っている、とは、どういう意味でしょう。もう、どこかにお相手が、いらっしゃるのでしょうか。それにしては、いつもおひとりで、山に登ってこられますのに。私には、さっぱり、わかりませんでした。
と。そのときです。すぐそばの茶屋で、いち部始終をながめていたマーサさんが、やれやれ、と言わんばかりに、それはもう大きなため息をついたのが、こちらまで聞こえてきました。そうして、のっそりと私のとなりまでやってくると、あきれ果てた顔で、ぼそりと、こう言ったのです。
「……お社さま。あんた、この前、テオとリナのことを、まわりが見えてない間抜けな当人どうしだって、さんざん、笑ってたねえ」
「はい。言いました。ほんとうに、じれったい二人ですよねえ」
「……はあ。まったく、あんたって人は」
マーサさんは、それだけ言うと、もう一度、深々とため息をついて、茶屋へ戻っていきました。見れば、お供のホルガーさんまでもが、なぜだか、そっと目もとを押さえて、しずかに天を仰いでいます。
——はて。私、なにか、おかしなことを、言ったでしょうか。テオくんとリナさんの話が、どうして、いまここで出てくるのでしょう。私は、赤い紐の木札を手にしたまま、しばらく、きょとんと、その場に、立ちつくしていたのでした。
* * *
そんなにぎやかな日々が、いくつか過ぎた、ある朝のことでした。
私がいつものように社の掃除をしていると、鳥居の下にひとり、見慣れないお客さまが立っているのに、気がつきました。
旅装の、老人でした。節くれだった杖をつき、色あせた外套を深くまとって、背中にはずっしりと重そうな旅嚢を負っています。よほど遠くから歩いてきたのでしょう。その顔にも、杖を握る手にも、長い旅の日焼けと深いしわが、幾すじも刻まれていました。けれど、そのしわの奥の目だけは、なにか大切なものを、ようやく探しあてた人のように、静かに澄んでいたのです。
その老人が、私の姿を見つけると、しわ深い顔をくしゃりとほころばせ、それからふところから、なにやらたいそう古びた、一冊の帳面を、そうっと取り出して、私のほうへ差し出しました。——それが、遠い遠い旅路のはてに、この小さな鈴の社へ、あるひとつの大きな願いを抱いてやってきた、ふしぎな巡礼の、はじまりだったことを。このときの私は、まだ、知るよしもなかったのです。




