【幕間】待ち人
その紙を、俺は懐からそっと取り出した。
自室のランプの灯りの下で、四つに畳んだそれを、丁寧に開く。スズランの社で、今日、俺が引いた、おみくじだ。
——『待ち人、来たる。すでに近くにあり』。すみに小さく、大吉、とも記されている。
スズランに「何が出ました」と問われたとき、俺は「大吉だ」と答えた。嘘は、ついていない。たしかに、これは大吉の紙だ。——だが、この肝心の一行を。スズランの前で読み上げる勇気だけは、俺には、どうしても、なかったのだ。
……たいした、ものだ。
今日もスズランは、山の上で、とんでもないことをやらかしていた。神様の助言とやらを、紙に書いて、銅貨一枚で売るという。悪い目を引いた者が恨みはしないかと俺が案じれば、彼女は、けろりとした顔で言ってのけた。凶は、備えなさいの助言です、と。——なるほど、と思わされた。しゃくだが、スズランの理屈はいつも、俺の思いもつかないところから、やってくる。
書き手が足りないと言うから、俺が書こうと申し出た。断られた。ならば領民を集めると言えば、それも断られた。スズランは、俺の差し出すものを、相変わらず片端から突き返す。金も、絹も、宝石も。そして今日は、この俺の手まで。
それでいて、スズランは、俺が案じたことだけは、しっかりと受け取った。「ご心配、ありがとうございます」と、あの、まっすぐな目で。——妙なものだ。物は何ひとつ受け取らないくせに、こちらの気持ちだけは、こうもたやすく、受け取っていく。
思い返せば、今日も俺は、スズランに、さんざん振り回された。
俺が書こうと言えば、罰当たりだとはねつけられ。領民を集めると言えば、心がこもらないとはねつけられ。兵を出すか、と言いかけたときの、スズランの顔ときたら。まるで、聞き分けのない子どもをたしなめる、母親のようだった。氷の辺境伯と陰で恐れられるこの俺が、山の上の小さな聖女ひとりに、めっ、と叱られて、しゅんとなる。
妙なものだ。それが、ちっとも、悪い気がしない。
王都にいたころ、俺に逆らう者など、ひとりもいなかった。俺が口を開けば、みな、ただうなずくばかりで、まともに目を合わせる者すら、いなかった。それが当たり前だと思って、生きてきた。——それが、どうだ。スズランときたら、だめです、いけません、と、この俺に、平気で逆らう。そのくせ、こちらが案じれば、ありがとうございます、と、花のように笑うのだ。
叱られて、笑われて、振り回されて。それでいて、この胸の、妙な、あたたかさは、いったい、なんだ。
俺は、もう一度、その紙に目を落とした。
待ち人、来たる。
……待ち人、とは、なんだ。俺は、誰かを待っていただろうか。この呪われた辺境の屋敷で。誰にも触れられず、誰にも近づかれず、ただ氷のように日々をやり過ごしていた、あのころ。俺はたしかに、何かを待っていた気がする。それが何なのか、その名も知らないまま。
すでに、近くにあり。
……近くに。俺の、いちばん近く。三日にあげず俺が坂を登る、その道の先。祈りを重ねる夜に、俺の手を両手で包む、あの——。
……ばかばかしい。
俺はその紙を、また四つに畳もうとした。たかが紙きれ一枚だ。占いなど、信じてはいない。——だが、その手はなぜか、それを破り捨てることもできずにいる。丁寧に畳んで、もう一度、懐へしまおうとして。
つい、もう一度だけ、俺はその一行を、見てしまった。
待ち人、来たる。すでに、近くにあり——。
「——お待たせ、いたしました」
扉が、開いた。
「お食事のご用意が、ととのいましてございます」
ホルガーだった。
俺は、跳ねるように立ち上がった。手の中の紙を、ぐしゃりと握りこんで。気づけば、口が勝手に、動いていた。
「——待ち人は、貴様ではないっ!」
「……は?」
「俺は待ってなどいない! 誰も、待ってなどいないぞ、ホルガー! 断じて、待ってなど……!」
しん、と。
ホルガーが、燭台を手にしたまま、ぽかんと口を開けている。……当たり前だ。食事の支度がととのったと告げに来た、それだけの家宰に。主がいきなり、待っていない、待っていない、と、必死の形相で叫んだのだから。
俺は、こほん、と咳払いをひとつした。握りしめた紙を、そっと背中に隠す。耳が、燃えるように熱い。
「……なんでもない。すぐ行く」
「……はあ。左様で、ございますか」
ホルガーは、それはもう、いぶかしげな顔をしていた。けれど、長年仕えた家宰だ。それ以上は何も問わず、ただ静かに頭を下げて、出ていった。——出ていきざま、その口元が、かすかにゆるんでいた気がしたのは。きっと、俺の気のせいだろう。
ひとり残された部屋で、俺は、背中に隠したその紙を、もう一度、そっと開いた。
待ち人、来たる。すでに、近くにあり。
……ふん。よく当たる、おみくじだ。
俺はそれを、今度こそ丁寧に畳んで。誰にも見つからないよう、机のいちばん奥の、鍵のかかる引き出しへ、そっと、しまいこんだのだった。




