王都に届いた噂(三) その「絶世の天使さま」は、今日も山の上で銅貨を数えている
さて。ところ変わって、こちらは北の辺境。
その「翼の生えた、絶世の天使さま」は、というと。
今日も山の上の帳場で、銅貨を一枚また一枚とうっとり数えながら、にんまりしていた。
「ふふ。今日も大繁盛。……あら、この銅貨、ちょっと曇ってますね。みがいてあげましょう」
翼は生えていない。魔獣も従えていない。ただの、そろばん勘定の大好きな十七の巫女です。
鈴の社は今日も朝から大にぎわい。参道の茶屋からはあたたかい湯気が立ちのぼり、鳥居の下では狛犬のアンが、来る人来る人に、へへ、と愛想をふりまいて。その反対側では無愛想なウンが、むっつりと参道の先を見すえています。
私はうんと伸びをして、青い空を見上げました。追放されてきたころはこの先どうなることかと途方に暮れたけれど。いまではこの山は、こんなににぎやかであたたかい場所になりました。
もっとも私は、自分の噂がはるか遠い都で、翼だの魔女だのとんでもない尾ひれをつけて、大きな聖堂のえらい人たちをあわてさせているだなんて、これっぽっちも知りません。——もし知っていたら、たぶんこう言ったでしょう。
「翼で空を飛べるなら、遠くの参拝客の送り迎えが楽なんですけどねえ」と。
* * *
その夜は、十日に一度の大切な晩でした。
当主さまの呪いを、ゆるめ直す夜です。
この方の凍てついた呪いは、私の遅い祈りで、いちどは春の陽だまりのようにやわらいでも。十日もすれば、また少しずつ、もとの冬へ戻ろうとします。だから私は、十日に一度こうしてお屋敷へ上がり、また、ゆっくりと、ゆるめ直してさしあげるのです。
執務室の燭台のあかり。私は当主さまの大きな手を両手でそっと包んで、目を閉じ、祈りを重ねていきます。
——けれど。この夜のいちばん不思議なところは、じつはそこではないのです。
この執務室はたぶん、この広いお屋敷のなかでいちばんあたたかい部屋でした。
暖炉のせいではありません。なにしろ氷の辺境伯のいる部屋です。むしろ、しんと冷えているくらい。それなのに、この方と二人でこうしていると、部屋の空気が、なぜだか、ふんわりとゆるむのです。
私は祈りながら、いつものように、とりとめもなく、しゃべります。今日は参道でこんなことがあった。マーサさんの茶屋の新しい品がとてもおいしかった。アンがまた知らないおじいさんに愛想をふりまいて、団子をちゃっかりもらっていた——。
当主さまはほとんど何もおっしゃいません。ただ「ああ」とか「そうか」とか、それきりです。
けれど、その「ああ」のひとつひとつが。ちゃんと私の話を聞いている「ああ」なのです。相槌の間合いや、かすかに動く眉の先で、私には、わかります。この無口なお方が、私のくだらないおしゃべりを、まんざらでもなさそうに、聞いてくださっているのが。
だからこの部屋は、あたたかい。
ふと、当主さまのほうから、口を開きました。
「……おまえは。この辺境に来て、もうどれくらいになる」
この無口なお方が、自分から何かをたずねるなんて、めずらしいことです。私は、指を折って数えました。
「ええと……もう、ふた月あまりになりますね。早いものです」
「ふた月か」
「はい。毎日社に通って、あっという間で。退屈するひまも、ありません」
「……毎日、社ばかりだな。どこか、行きたいところはないのか」
まあ。私は思わず顔を上げました。この方が、そんなことを気にかけてくださるなんて。
「行きたいところ、ですか。そうですねえ……あ、いつか、王都の大きな市場を見てみたいです。北の品がどんなふうに売られているのか、仕入れの参考になりますから」
「……そこでも、商いか」
「性分なんです」
当主さまが、めずらしく、ふと肩を揺らして笑いました。氷がほんの少しとけたような、その笑い方。私はうれしくなって、今度はこちらからたずねます。
「当主さまは、今日はお勤め、大変でしたか。辺境伯さまって、毎日どんなことをなさっているんです?」
「……国境の見回り。魔物の報せのさばき。領のもめごとの裁き。あとは、書類だ」
「まあ。書類は、私も苦手です」
「……あれだけは、呪いより厄介だ」
氷の辺境伯が、書類にうんざりしている。そのふとした一言がおかしくて、私たちは顔を見合わせて、くすりと笑いました。
燭台の火が、ぱちと小さくはぜて。二人のあいだに、しばらく言葉のない時間が流れます。けれど、それは少しも気づまりではありません。むしろ、その静けさこそが、いちばん心地よいくらいなのでした。
どれくらいそうしていたでしょう。
「……今日は、背中まであたたかい」
当主さまがぽつりとおっしゃいました。呪いのゆるんだところが、また少し広がったのです。
「ほんとうですか。よかった。はじめのころは、指の先がやっとだったのに」
私がうれしくなって顔を上げると。燭台のあかりの下、氷のように整った当主さまの横顔が、ほんの少しだけやわらいでいるのが見えました。
「……この領は、いい拾い物をした」
拾い物。私はきょとんとして首をかしげます。
「山、ですか?」
「……」
「あ、わかりました。あの裏山ですね。何もなかった山に社ができて、茶屋までできて。ええ、たしかにとんだ掘り出し物の山でした。当主さま、お目が高い!」
「……山も、だ」
と、それだけ。
山"も"。——はて。山のほかにいったい何があるというのでしょう。私がうんうんと首をひねっていると。
足もとで、当主さまにくっついてちゃっかりお屋敷まで来ていた無愛想なウンが。まるでやれやれとでも言うように、ふさふさの尻尾をぱたりとひとつ振りました。
……この子はいったい、何にそんなに呆れているのでしょう。
わからないまま、私はまた当主さまの手をそっと包みなおします。燭台の火があたたかく、二人を照らしていました。
——ああ、なんていい夜でしょう。私はこの、十日に一度の静かな夜が、じつはけっこう好きなのでした。それがどうしてなのかは、やっぱりうまく言葉にできないのですけれど。
* * *
その晩、部屋に戻ってからも、私はなかなか寝つけませんでした。
東の棟の小さな縁側に出て、夜風に当たりながら暗い山の上を見上げます。稜線のちょうどそのあたりに、私の鈴の社がいまごろ静かに眠っているのです。
私はなんとなく指を折って、この数か月のことを勘定してみたくなりました。困りごとがあると、つい算段をはじめてしまう、経営者の悪い癖です。
——追放されたあの日。私の全財産は、銅貨二十三枚きりでした。
教会をクビになって、着のみ着のまま護送の馬車に放りこまれて。ふところのたった二十三枚の銅貨をにぎりしめながら、「さあ、新しい再就職先とやらを、とくと拝見してやろうじゃないの」なんて、からいばりでうそぶいていたものです。
それが、どうでしょう。
いまの私の"帳簿"には、こんなにもいろんなものが書きこまれています。祈りを返す鈴の社に、りっぱな鳥居。ガンツさんの石段に、マーサさんの茶屋。それから、へへと笑う狛犬とむっつりした狛犬が一匹ずつ。おまけに、これから建つという宿まで。
銅貨二十三枚からはじまった私の帳簿は、いつのまにか、山ひとつぶんの暮らしにまで、ふくらんでいたのです。
お金だけの話ではありません。頼れる女将のマーサさんがいて、頑固で腕のいいガンツさんがいて、話し好きの行商人ロッコさんがいて。そして、無口だけれど優しい、あの方がいる。銅貨ではとても数えきれないものまで、いつのまにかこの帳簿には書きこまれていました。
教会をクビになったあの日の私に、できることなら教えてあげたい。
——心配しなくてもだいじょうぶ。あなたの再就職先はね。銅貨五枚の小さな小さなお守りからはじまって、気づいたころには山ひとつぶん。まるまるちゃんと、ありますよ、と。
夜風がふわりと頬をなでていきます。どこか遠くの梢で、ほう、とふくろうが鳴きました。
私はなんだか、じんわりとあたたかい気持ちになって。もう一度だけ山の上を見上げてから、そっと、部屋の障子を閉めたのでした。
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その夜。
遠く王都アウレリアの空を覆う光の大結界が。——誰にも気づかれないまま、たったの一度だけ、ふ、と、まばたきをしたのだった。




