王都に届いた噂(二) 一刀両断の大司教が、ひとつだけ指を止めた——「翼の魔女」
その報せはその日のうちに、大聖堂のいちばん奥——大司教ゲルニウスの耳にも届けられた。
齢六十を超えてなお背すじの伸びた、痩せた老人である。落ちくぼんだ目の奥で灰色の瞳が冷たく光っていた。この国の光神教をいちばん高いところで実際に動かしているのは、王ではなくこの老人だった。
ドロス司祭が汗をぬぐいぬぐい、噂のあらましを読みあげていく。
「北の空より、翼の生えた魔女とも天使とも言われているものが舞い降り……」
「翼」
「は。門には地獄の魔獣を二匹従え……」
「魔獣」
「銅貨五枚にて、どのような願いもかなえ……」
「五枚で何もかも、とはな。安売りもたいがいにせよ」
「い、祈りは倍になって返り……」
「利息のつく祈りなど、生まれてこのかた聞いたこともないわ」
老人は、ひとつ、またひとつと、鼻で笑って切り捨てていく。翼だの、魔獣だの、倍の御利益だの。そんな尾ひれの化け物など、この百戦錬磨の大司教にとっては、笑止のひとことで、片づくものだった。
——ところが。
その山と積まれた作り話のいちばん底に、たったひとつだけ、老人の指をぴたりと止めるものがあった。
「……その女は。祈りを、"返す"と。そう申しておるのか」
「は、はい。参拝した者に、あなた自身の祈りをお返ししているだけです、と。その女はそのように」
老人は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。翼も、魔獣も、御利益も、どうでもよい。だがそれだけは。——祈りを聖堂に通さず、民にじかに返すというその一点だけは。
民が祈りを捧げ、聖堂がそれを預かる。だからこそ聖堂は、聖堂でいられる。この大きな聖堂を、いちばん底で支えている、たった一枚の土台石。それを、あの女は根っこからそっと抜こうとしている。
「思い上がった女だ。……その女、名はなんという」
「は。たしか——スズラン、とか」
こつ、こつ、と規則正しく肘掛けを叩いていた老人の指が。——ふと、止まった。
ほんの、一拍。
「……スズラン」
その名を、老人は口のなかで小さく転がした。灰色の瞳の奥を何かがよぎったようにも見えたが、それがいったい何であったのかは、うつむいたままのドロス司祭にはついに見えなかった。
「よい。下がれ」
老人はそれきり、窓のほうへ顔をそむけてしまった。
* * *
その騒ぎとはまるで無縁に。大聖堂のいちばん深い地の底では。
ひんやりと湿った石造りの宝物庫で、ふたりの下役が、その日の見まわりをしていた。若いほうのピムと、その先輩のガロである。もっともガロのほうは、棚の点検などそっちのけで、壁にもたれて大あくびをかみ殺していた。
「あーあ。早いとこ切り上げて、一杯やりてえなあ」
「ガロさん。まだ半分も見てませんよ」
「いいんだよ、こんなもん。札の数さえそろってりゃ、それで。……なあピム、おまえ聞いたか。北の"天使さま"の噂」
「ああ、翼の生えた、っていう」
「そうそう。銅貨五枚で、どんな願いもかなうんだとよ。ありがてえ話だよなあ。おれのたまった飲み代も、いっちょ、かなえてもらいてえもんだ」
「願いごとが飲み代って……」
ピムはあきれながらも、棚の札を一枚、ランプにかざした。——と、その手が、ふと止まる。
「……ガロさん。この札、なんだか光が鈍くないですか」
「あん? 気のせいだろ」
「いや、でも。前はもっと、芯のところが白く澄んでた気がするんです。それがこのごろ、どの札もくすんできてるような」
ガロは、めんどくさそうに片目を開けた。
「ピム。おまえ、いいこと教えてやろうか。この宝物庫でいちばん身を滅ぼすもの。なんだと思う」
「……なんです」
「"気づき"だよ」
ガロは、にやりと笑った。
「気づいたら、報告しなきゃならん。報告したら、調べさせられる。調べたら、書類だ。書類のあとは、また書類さ。……いいかピム、おれたちの給金はな、"札を数える"ぶんしか出てねえんだ。札のくすみに気づくぶんまでは、一銭も出ちゃいねえ。だったら気づかねえのが、いちばん利口ってもんだろうが」
「……それは、そうかもしれませんけど」
「だろ? さ、鍵かけて上がろうぜ。今日は給金日だ。一杯つきあえよ」
ガロはそう言うと、さっさと出口のほうへ歩いていく。
あとに残されたピムは、手のなかの札を、もう一度見た。ほのかにくすんだ、その光を。——なんだか、うそ寒い。この札に込められた「何か」が、日ごとに少しずつ、抜けていっているような。まるで込めた日から、あらかじめ期限でも決められているかのように。
けれどもピムは、その先を知らない。この札が誰のどんな祈りで書かれたものなのか。そしてそれを書ける者がいまや、この国のどこにも、たったのひとりも残っていないということを。
「おーい、ピム! 早く来い! 酒が逃げるぞ!」
「……はいはい、いま行きます」
ピムは小さく首をかしげると、結局その札をそっと棚に戻し、先輩の背中を追いかけた。
石の底に、また静けさが降りる。棚の札は今日も、ほんの少しだけ、その光を鈍らせた。——誰にも、気づかれないまま。
* * *
その噂は、当然、王宮の、きらびやかな回廊にも届いていた。
婚約披露の支度に沸く回廊で、王太子ユリウスは侍従の語る「北の翼の魔女」の一件を聞いて、鼻で笑った。
「翼の魔女、ときたか。北の連中はよほど暇と見える」
そのかたわらを、聖灯級聖女プリメラが、大勢の供をしたがえて、足早に通り過ぎていく。史上はじめての「聖灯級」と讃えられる、輝くばかりの聖女だ。治癒に祈祷に式典の支度にと、その身はいくつあっても足りぬほど、方々から引っぱりだこのようだった。
「……そういえば」
ユリウスがふと、思い出したようにつぶやいた。
「あの燭台級は。私が追い出してやった、あの落ちこぼれは。いまごろ、どうしておるかな」
「さあ。……とうに野垂れ死んでおるのでは」
「だろうな」
ユリウスは、興味もなさそうに、そう言って笑った。
——このきらびやかな都の誰ひとりとして。北の空に舞い降りたというその「翼の魔女」の正体が、ほかでもない、自分たちがいらぬゴミのように放り捨てた、あの燭台級の落ちこぼれだとは。夢にも思っていなかったのである。




