【幕間】はじめての温度
その夜、彼女の祈りは、いつもと違った。
何が違うのか、俺には言葉にできない。ただ暖炉の前で、彼女が手をかざしたその瞬間から、体の芯にあったものが静かにほどけていくのが分かった。十年、俺の中に居座り続けた、あの冷たいものが。氷が割れる音はしなかった。もっと静かな、雪が水に還るような、そんなほどけ方だった。
「……眠りました」
彼女はささやくように、そう言った。
「もう、奪いません」
俺は答えられなかった。
自分の右手を見た。まくった袖の下の、その手を。指を握ってみる。開いてみる。——血が通っている気がした。十年ぶりに、この手に、たしかに血が。
誰にも触れられずに生きてきた。
十歳のあの日から、俺の手はただの凶器だった。触れれば奪う。ぬくもりを、生気を、命さえも。だから俺は革の下に、この手を閉じ込めた。母の手を。友の肩を。すべてを諦めて。触れないことが、俺にできる唯一の優しさだった。
最後にひとの手を知ったのは、母だった。呪いが牙をむく、その寸前。母は凍えていく息子の頬を、両の手で包んだ。冷たくなっていく顔を、必死にあたためようとして。その手のぬくもりだけは、いまも覚えている。だがそれきり、誰も俺に触れなかった。俺も、誰にも触れなかった。ぬくもりは、遠い記憶の底に、鍵をかけてしまいこんだ。
だが、いま、この手は眠っている。
試してみたいと思った。
馬鹿げた衝動だ。眠っただけで根はまだ残っていると、彼女自身が言うだろう。危険かもしれない。もしまだ奪うようなら。彼女を凍らせてしまったら。——その恐れが、俺の手を押しとどめる。
それでも俺は、左手を上げていた。
右手の手袋の指先をつまむ。ゆっくりと抜いていく。一本、また一本。そのたったそれだけの動作に、十年ぶんの躊躇が乗っていた。革が膝の上に落ちる。あらわになった素手。この手が最後に何かへ触れたのは、いつだったか。もう思い出せない。
彼女の手が、すぐそこにある。小さな働き者の手だ。銅貨を数え、木札を削り、山じゅうを駆けまわる、あの手が。
俺はそれに触れた。
こわしてしまわないように。息を止めて、そうっと。壊れ物にでも触れるように、その手を包んだ。
——温かい。
その一瞬、俺の中で何かが崩れた。
温かい。ただそれだけのことだった。手のひらにじんわりと伝わってくる、ひとの熱。あまりにあたりまえのぬくもり。世のすべての人間が生まれたときから当たり前に知っている、それを。俺は十年忘れていた。いや——忘れることすら許されずに生きてきた。
「……温かいな、人は」
やっとのことで口から出たのは、それだけだった。
スズランは何も言わなかった。あのよくしゃべる聖女が。銅貨のことも鳥居のことも、いくらでもまくしたてるくせに。俺の手の中で、ただうつむいていた。その沈黙が、どんな言葉よりも雄弁だった。
離したくないと思った。
この手を。この温度を。この静かな夜を。——ずっとこうしていたい。そう願う自分に、俺は驚いていた。領地でも剣でも権力でもない。ただこの小さな手ひとつを、俺は生まれて初めて、心から欲しいと思った。
どれほど、そうしていただろう。スズランの手のぬくもりが、俺の指の先から、腕へ、胸へと、ゆっくり上ってくる。凍っていた場所が、順に灯をともされていくようだった。呪いが溶けたのとは、また違う。これは、スズランという人間そのものの熱だった。
軒の鈴が、ちりん、と鳴った。
どこか遠くで。あるいは俺の思い違いか。その音に俺たちははっと我に返り、どちらからともなく手を離した。名残が指先に残った。俺はそれを振り払うように、また手袋をはめ直した。
まだ根が残っている。素手ではいられない。
——それが、なぜだか、少しだけありがたかった。
根が残っているなら、スズランはまた来る。十日ごとに、この部屋へ。かけ直しのために。呪いが完全に消えるその日まで。……我ながら度しがたい。呪いに感謝するとは。十年、俺を苦しめてきたこの冷たいものに。早く消えろとあれほど願ったものに、いまは、まだ消えるなと願っている。
スズランが職人の顔に戻って、言った。
「これからも——通ってくださいね」
通う、と、スズランは言った。この屋敷に住んでいるくせに。言い間違いだ。正してやることもできた。だが俺はしなかった。
「……ああ」
と、だけ答えた。
その一言に、俺は言えないものをすべてこめたつもりだった。伝わったかどうかは分からない。おそらく伝わっていない。スズランは俺の想いを、いつも上客への贔屓か何かに変換してしまう。それでいい。まだ、それでいい。
呪いがいつか、根まで消えたとき。
俺はスズランを引き止める理由を失う。そのとき俺は、何をもってスズランに通ってくれと言えばいいのか。——その答えを、俺はまだ持たない。名前のつかないこの想いは、いつも言葉になる手前でつかえてしまう。
だが、今夜だけは。
この手のひらに残った、はじめての温度だけは。俺は生涯、忘れないだろう。
……おかしな聖女だ。凍りついた俺の手に、ひとの温度を思い出させて。そのくせ、自分がしたことの大きさには、まるで気づいていない。




