触れた手(二) ……温かいな、人は
当主さまがゆっくりと、手袋を脱いでいく。
一本、一本の指から、黒い革が抜けていく。そのたったそれだけの動作に、この人は十年ぶんのためらいをこめているようでした。ゆっくりと。おそるおそる。まるでその下から出てくる素手が、なにかこわれやすい、あぶないものであるかのように。
脱いだ手袋が、ぱさりと膝の上に落ちました。
あらわになった素手。長い指の、大きな手。十年ずっと革に閉じ込められてきたその手が、暖炉の灯りの中にさらされています。
当主さまはその手をじっと見つめました。それからゆっくりと、こちらへ——私のほうへと伸ばしてきたのです。
(……あ)
私は動けませんでした。
その手が、私の手にそっと重ねられます。
あたたかい。——いえ。あたたかくはないのです。まだほんの少し、ひんやりとしている。けれどその冷たさはもう、すべてを奪うだけの、あの凍てつく冷たさではありませんでした。ただ冷えた、ひとの手。それだけの冷たさ。
当主さまは私の手を握りました。
こわれ物を扱うみたいに。壊してしまうことをなにより、おそれるみたいに。そうっと、そうっと。その大きな手のひらの中に、私の小さな手がすっぽりと包まれます。
長い、長い沈黙がありました。
暖炉の火が、ぱちり、とはぜます。窓の外を初夏の夜風が、さらり、と通りすぎていきます。当主さまはただ、私の手を握ったまま。うつむいて、その重ねた手を見つめていました。
やがて。
当主さまの唇が動きました。
「……温かいな、人は」
その、たったひとことに。
私は何も返すことができませんでした。
いつもなら口から先に生まれてきたようなこの私が。銅貨の勘定にも鳥居の講釈にも、いくらでもぺらぺらとしゃべれるこの私が。この、たったひとことの前で、まるで言葉というものを生まれて初めてなくしてしまったみたいに。ただ握られた自分の手を見つめることしか、できませんでした。
温かいな、人は。
——十年。この人はそれを、知らずにいた。ひとの手がこんなにもあたたかいものだということを。誰にも触れられないまま。誰にも触れることもできないまま。この、あたりまえのぬくもりひとつを、この人は十年、知らずに生きてきたのです。
鼻の奥が、つん、としました。
泣くところではないのに。むしろこれは、めでたいことなのに。それなのになんだか、目の奥が熱くなって。私はぐっとそれをこらえました。ここで泣いてはいけない。ここで泣いたら、この静かな夜が崩れてしまう。
* * *
その長い沈黙をほどいたのは、軒の鈴の音でした。
ちりん。——と。
どこか遠く、裏山の社の軒から、夜風に乗って鈴の音がひとつ届いたような。……いえ。屋敷のこの部屋まで、社の鈴の音が届くはずもありません。きっと風の悪戯か、私の思い違い。それでもその澄んだ音はたしかに私の耳へ、届いたのです。まるで張りつめた糸を、そっと切ってくれるように。
当主さまがふと、顔を上げました。
目が合いました。
その瞬間、私たちはどちらからともなく、そっと手を離しました。名残を惜しむような、ほんの一拍の間があって。それから二人とも、少し決まりの悪い顔で目をそらしました。
窓の外は初夏の、青い夜。
当主さまは膝の上の手袋を、また、そっとはめ直しました。まだ根が残っている。素手のままではいられない。それは二人とも分かっていました。けれど、たったいまこの手がたしかに私の手に触れたのだという、その事実だけは。もう誰にも消せないのです。
* * *
私は、こほん、とひとつ咳払いをしました。
そろそろ職人の顔に戻らなければいけません。いつまでもしんみりしていては締まりがつかない。私は姿勢を正して、当主さまに向き直りました。
「あの、当主さま。ひとつ、大事なお話が」
「……なんだ」
「呪いはたしかに、眠りました。でも——根っこはまだ、残っているんです」
私は指を一本立てて、言いました。
「いまは寝ているだけ。放っておくとまた目を覚まして、暴れ出します。だから眠っているうちに、十日ごとにこうしてかけ直しに来ないといけません。芽が出ないように、根を少しずつ細くしていくんです。……ぜんぶ抜けるまでには、まだたっぷりかかります」
当主さまは黙って聞いています。
「ですから」
私はまっすぐにその人を見て、言いました。
「これからも——通ってくださいね」
言ってしまってから、私は内心、あ、と思いました。通う、というのはおかしな話です。私がこの屋敷に住み込んでいるのですから。通うのは私のほう。当主さまはただ、ここにいてくださればいい。それなのになぜだか、私の口は勝手に「通ってくださいね」と言っていたのです。
けれど当主さまは、その言い間違いを正しませんでした。
ただ、少しだけ間をおいて。
「……ああ」
と、答えました。
たった、ひとこと。
けれどその「ああ」には、なんだかたくさんのものが乗っているように聞こえました。うまくは言えません。うなずき、というより約束。約束、というよりもっと静かな、何か。私はその「ああ」を聞いて、なぜだかまた、胸の奥にあのあたたかいお湯を一杯注がれたような心地になったのでした。




