触れた手(一) 今夜だ——十年、誰にも触れなかった手が
その夜が来ることを、私の指先だけは、少し前から知っていました。
季節はめぐります。
北の辺境にも遅い初夏が、そろそろと訪れていました。黒森の際まで若い緑がびっしりと萌えて、山の空気に青い匂いが混じりはじめます。参道の脇には名も知らぬ白い小花がぽつ、ぽつと咲いて、参拝の人たちの目を和ませていました。
鈴の社は、あいかわらずの大にぎわいです。
お守りの噂はいよいよ遠くまで届いて、いまでは隣の領からもわざわざ山を越えて、人が来るようになりました。私は相も変わらず手水を案内し、祈りを重ね、お守りを書き、時々お野菜をいただいては、朝から晩まで社の中を駆けずり回っています。
そして十日に一度。
私は当主さまの、呪いのかけ直しに屋敷へ通います。——いえ。「通う」というのは少し正しくありません。私の住まいは、その屋敷の一室ですから。裏山の社から裏手の木戸をくぐって坂を下りれば、もうそこが当主さまのお屋敷。夜、祈りの支度をして執務室へ上がるのは、私にとってはほんのひとまたぎの道のりなのです。
その十日ごとの祈りの手ごたえを、私は心の帳面にこっそりつけていました。
はじめて祈った日、凍てついた呪いは当主さまの体じゅうを、芯までびっしりと覆っていました。私の祈りが溶かした温度の領土は、最初、指先のほんのひとつまみ。それが十日ごとにじわり、じわりと広がっていったのです。指先から手首へ。手首から肘へ。そしてこの初夏のころには、とうとう肩のあたりまで。
凍りついた冬の土に春の陽が差して、はしからゆっくりとぬくもっていく。あの感じによく似ています。急いてはいません。けれど確かに。ひと祈りごとに、この人の中の冬はうしろへ、うしろへと退いていくのです。
「呪いさん。あなたも最近は、ずいぶん聞き分けがよくなりました」
私は祈りながら、いつも心の中でそう話しかけていました。
最初のころ、この呪いはそれはもう頑固で。私の祈りが近づくと、警戒した獣のようにぐっと身を固くして、なかなかほどけようとしませんでした。それがこのごろは、私の手のぬくもりを覚えたみたいに、すう、と素直に力を抜くのです。
——ああ。この呪いはそろそろ、疲れているのだな。
職人の勘、とでもいいましょうか。十年この人を凍らせ続けてきた、この頑なな冬は、もうずいぶんくたびれている。あとひと押し、ふた押しで、この芯はこらえきれずにほどけて、眠りに落ちる。——そんな予感が、私の指先にはっきりと宿りはじめていました。
それがいつなのか。私にも正確なところは分かりません。
けれど、そう遠くない。それだけは確かでした。
* * *
その夜も、いつもと同じでした。
十日に一度の、祈りの晩。私は、湯を使ってさっぱりとしてから、いつもの装束に着替えて、屋敷の執務室へと上がりました。廊下はしんと静かで、遠くで、夜鳥がひとつ鳴いています。
執務室の扉を叩くと、いつものように「入れ」と、低い声がしました。
部屋の中は、暖炉の火が、ぱちぱちとあたたかく燃えています。もう初夏だというのに、この部屋にはいつも火が入っている。凍てつきの呪いを持つこの人にとって、火の気は、手放せないものなのだと、私は通ううちに知りました。
当主さまは、いつもの椅子に腰かけていました。上着を脱いで右腕の袖をまくり、こちらへその手をさしのべる。——これが私たちの、十日ごとの決まりごと。私はその手のあたりに、そっと両手をかざします。触れはしません。触れれば私の体温が、たちまち奪われてしまいますから。ほんの少しの隙間を空けて、手のひらからあたたかいものを送り込んでいくのです。
いつもと同じ支度でした。いつもと同じ暖炉の火。いつもと同じ、火の粉のはぜる音。
けれど。
祈りはじめてすぐ、私は指先で、それを感じ取りました。
(——あ)
(……今夜だ)
呪いの芯が。あの頑なだった冬の、いちばん深い核が。私の祈りの熱に触れて、こらえきれないというように、ほろりとゆるんだのです。
* * *
私は息をそっとととのえました。
急いてはいけません。ここで力を込めて一気に溶かそうとすれば、この芯は驚いて、また固く縮んでしまう。教会の聖女たちはみんな、そうやって失敗してきたのです。強い光でいっぺんに焼き切ろうとして、返り討ちに遭ってきた。
だから私はゆっくりと送り込みます。せかさず、あわてず。まるで眠りかけた赤子を、そっと寝かしつけるように。あたたかいものを少しずつ、少しずつ。
私の手のひらの下で、凍てついた芯がゆっくりと形を失っていきます。
それは氷がぱりんと割れるのとは違いました。もっと静かで、もっとやわらかいもの。冬のあいだかたく凍りついていた雪が、春の陽だまりの中で音もなく、じんわりと水に還っていく。——そんな溶け方でした。頑なだったものが少しずつ角を失って、丸くなって。やがてふう、と力を抜いて。
そして。
私の手のひらの下で、それはとうとう眠りに落ちました。
あんなにこの人を苦しめ続けた冷たい冬が。十年、誰の手のぬくもりもこの人から奪い続けてきた頑なな呪いが。いま私の祈りの中で、静かに寝息を立てている。もう暴れません。もう奪いません。
私はそっと両手を引きました。
部屋の中はしんと静まりかえっています。暖炉の火だけが、ぱち、と小さくはぜました。
「……眠りました」
私はささやくような声で、そう告げました。
「もう、奪いません」
当主さまは答えませんでした。
ただ、まくった袖の下の自分の右手を、じっと見つめています。その指先をためすように、ゆっくりと握って、開いて。まるでそこに初めて血が通ったことを、確かめるみたいに。暖炉の灯りが、その端整な横顔に赤くゆらいでいました。
どれくらいそうしていたでしょう。
やがて当主さまは、もう片方の手を上げました。
そして左手で、右手の手袋の指先をつまんだのです。
私は息をのみました。




