【幕間】列の最後尾
その日、俺は、参拝の列の最後尾に並んだ。
名目は視察だ。参道に人の列ができていると、家宰から報告があった。この目で確かめる。領主として、当然の務めだ。そうホルガーには言ってある。ホルガーは何も言わず、ただ、また胃の薬に手を伸ばしていた。
白々しいのは、承知している。
俺は、十日に一度、あの聖女の祈りを受けている。屋敷の執務室で、暖炉の前で。かけ直しのために、彼女のほうが、俺のもとへ上がってくる。だから、こんな山道の途中で、順番を待つ道理は、どこにもない。呪いのことなら、屋敷で足りる。
それでも、俺は並んだ。
なぜかは、うまく言えない。
列の前には、腰の曲がった老婆がいた。その前には、赤子を負ぶった若い母親がいた。皆、この山を登ってきた者たちだ。膝が痛む。眠れぬ。旅の無事を願う。ひとりひとりが、小さな願いを抱えて、朱塗りの鳥居をくぐっていく。壁のない、あの妙な門を。
列は、遅い。
当たり前だ。彼女は、ひとりの祈りを、けっして雑にしない。老婆の背に手をかざし、時間をかけて、何かを送り込んでいる。焦らない。急かさない。行列がどれだけ伸びようと、その手つきだけは、変わらない。ほかのすべてを猛烈な早業でさばきながら、祈りだけは、いつも、ゆっくりだ。
俺は、その様子を、列の後ろから、ずっと見ていた。
誰も俺に気づかない。黒衣の男が、参拝客に混じって、じっと順番を待っている。氷の辺境伯が。領民が怖がる、あの当主が。——それが、なぜだか、悪くなかった。ここでは、俺は、領主ではない。ただ、彼女の祈りを待つ、大勢のうちの、ひとりだ。
列の前のほうで、若い母親が、負ぶった赤子のことで、何か言っていた。銅貨が足りないらしい。俺の耳にも、途切れ途切れに届いた。彼女は少しも困った顔をせず、別の帳面を取り出して、母親の名を書きつけた。お代は、払えるときでいい。そう言っているのが、遠目にも分かった。母親が何度も頭を下げて、鳥居をくぐっていく。
妙な商いだ。銅貨が足りぬ客を、追い返さない。それでいて、この社は、日ごとに賑わい、潤っていく。損得の理屈が、俺の知るそれとは、まるで逆だ。——だが、その逆さの理屈こそが、この死んだ山を生き返らせた。金と兵で守ろうとして、俺が守りきれなかった北の土地を。銅貨五枚のお守りひとつが、いつのまにか、人の流れそのものを変えていた。
やがて、俺の番が来た。
彼女は、俺を見て、目を丸くした。何か言いたげに、口を開きかける。並ばなくてもいいのに、と、その顔に書いてある。だが、彼女はそれを、飲みこんだ。代わりに、いつもの、あの声で言った。
「よくお参り頂きました。お代は銅貨5枚です」
銅貨を、五枚、渡した。多くも少なくもなく、きっちり五枚。それ以上を渡せば、突き返されるのは、目に見えている。この社では、俺の財も、権も、何の意味も持たない。銅貨五枚。ただ、それだけが、通用する。——奇妙なことに、それが、心地よかった。
俺は、手水を使った。作法は、町の者から、こっそり聞いておいた。右手を清め、左手を清め、口をすすぐ真似をして、柄杓を立てる。ぎこちなかったろう。だが、間違えたくは、なかった。彼女の社の作法を。彼女の作った、この場所の、決まりごとを。
本殿の前に立ち、鈴を鳴らした。
ちりん、と、澄んだ音が、ひとつ。
手を合わせて、目を閉じる。——そこで、俺は、初めて気づいた。
願い事など、これまで一度も、持ったことがなかった。
十歳で呪われてから、俺の願いは、いつも、ひとつきりだった。誰にも触れずにいたい。誰も、凍らせずにすむように。それは、願いというより、諦めだった。手に入れたいものではなく、失わずにすむための、祈りだった。
だが、いまは。
目を閉じた闇の中に、浮かんできたのは、ひとつの顔だった。銅貨を数えてにんまりする、あの、変わった聖女の顔。この、死んだはずの山を、笑い声でいっぱいにした、彼女の。——俺は、何を願おうとしているのか。それが、言葉になる手前で、いつものように、つかえた。
結局、俺は、何も願わなかった。ただ、長いあいだ、手を合わせていた。それだけだ。
祈りを終えて、俺は、山を下りた。
振り返らなかった。振り返れば、また、あの顔を、まともに見てしまう。そうすれば、俺はきっと、何か、余計なことを、口走る。名前のつかない、この胸のうちを。
——あなたの山だ。
いつだったか、俺は、彼女に、そう言った。褒美にやった山を、まるで、はじめから彼女のものだったように。あのときも、俺は、うまく言えなかった。ほんとうは、もっと、違うことを、言いたかったのかもしれない。だが、その「違うこと」が、何なのか、俺自身、分かっていない。
暮れゆく参道を、俺は、ひとり、下りていく。
背後で、鈴が、また、ちりんと鳴った。
……おかしな聖女だ。銅貨五枚で、俺を、大勢のうちのひとりにして。それでいて、俺の中の何かを、あの列の、いちばん深いところまで、静かに、掘り起こしていく。
次の十日が、待ち遠しい。
その理由にだけは、俺は、まだ、名前をつけずにいた。




