銅貨5枚の波紋(三) ……あなたの、山だ
日が、すっかり暮れました。
軒の鈴が、ちりん、と鳴る、静かな夜。私は、本殿の縁側に腰かけて、一日の帳尻を、ゆっくりと、合わせていきます。今日、授けたお守りの数。いただいたお代。そして、つけ帳に、新しく書き加えた、二人の名前。
ふと、帳面をめくる手が、止まりました。
——教会にいたころ。私は、いつも、数を、数えられていました。今日は、何人を治したか。今月は、何件、こなしたか。強い光を、何回、出せたか。私自身が、ただの、数でした。名前も、顔もない、聖女という頭数の、ひとつ。
でも、ここでは、違います。
私が数えているのは、数ではなく、名前です。膝の悪い、あのおばあさん。大根をどっさりくれた、あのおじさん。三日かけて、熱の下がった、あの子。——教会では、祈った数を数えられたことしか、なかった。ここでは、祈りが、ちゃんと、誰かの名前を、している。
それが、たまらなく、うれしくて。私は、しばらく、鈴の音を聞きながら、闇に沈んでいく山を、いつまでも、眺めていました。
* * *
十日に一度の、祈りの夜が、めぐってきました。
屋敷の執務室で、私は、いつものように、当主さまの手のあたりに、そっと両手をかざします。凍てついた呪いの芯へ、時間をかけて、温かいものを送り込んでいく。——溶けた温度の領土は、いつのまにか、指先から手首を越え、肘のあたりまで、じわりと広がっていました。まだまだ、先は長い。それでも、確かに、少しずつ、この人の呪いは、ほどけてきている。
祈りを終えると、当主さまが、窓の外に目をやったまま、ぽつりと言いました。
「……行列が、できていたな」
まあ。ご存じでしたか。そういえば、このところ、視察という名の様子見に、山へ登ってこられる回数が、目に見えて、増えている気がします。石段の具合を確かめる、とおっしゃっては、なぜか、いつも参道のあたりで、行列を、じっと眺めておられる。
「おかげさまで。当主さまの山が、いい山で、本当に助かっています」
私が、そう言って頭を下げると。当主さまは、暗い山影を見つめたまま、少し間をおいて、ぼそりと、こう返しました。
「……あなたの、山だ」
私は、思わず、きょとん、としました。
あなたの山。——たしかに、褒美にいただいたのは、私です。けれど、もとはといえば、当主さまの、ご領地の山。それを「あなたの山だ」と、まるで、はじめから私のものだったみたいに、こともなげに、おっしゃる。
なんだか、こそばゆくて。私は、うまく、返事ができませんでした。ありがとうございます、と言うのも、なんだか違う気がして。結局、もごもごと、口の中で、言葉を転がすだけ。当主さまは、それ以上は何も言わず、ただ、自分の手を、握ったり、開いたりしています。肘まで戻ってきた、その温度を、確かめるみたいに。
沈黙が、少し続きました。けれど、それは気づまりな沈黙ではなくて。むしろ、ずっとこうしていてもいいような、そんなあたたかい静けさでした。暖炉の薪が、ぱち、と小さくはぜて、火の粉がひとつ、ふわりと舞います。
「……あなたが来てから」
ふいに、当主さまが、口を開きました。
「この屋敷が、少し、うるさくなった」
「まあ。それは、申し訳……」
「いや」
当主さまは、短く、そう遮って。それから、ほんの少しだけ、間をおいて。
「……悪くない」
悪くない。——このところ、私は学びました。この方の「悪くない」は、世間のふつうの「悪くない」より、ずっとずっと上等な褒め言葉なのだ、ということを。氷のように無口なこの人が、そこまで言うのは、よほどのこと。
私はなんだか、うれしくなって。「では、これからも、うんとうるさくいたします」と笑って言いました。当主さまは、ふ、と息だけで笑ったようでした。
その横顔が、出会ったころより、ずっと、やわらかく見えたのは。きっと、暖炉の、あたたかな灯りの、せいなのでしょう。……たぶん。
* * *
翌日も、鈴の社は、朝から、大にぎわいでした。
ひっきりなしの参拝客を、手水に案内し、祈りを重ね、お守りを書き、時々、お野菜をいただき。今日も、私は、ろくに座る間もなく、社の中を、駆けずり回りました。うれしい忙しさに、体は、くたくたです。それでも、心のほうは、不思議と、軽い。
そして、日がとっぷりと傾き。そろそろ店じまいにしようかという、夕闇の迫るころ。
参拝の列も、残りわずかになりました。あと数人で、今日も店じまいです。私は疲れた腰をとんとんと叩きながら、それでも、明日はどんな人が来るだろうと、もう楽しみにしていました。空には一番星。山の端は、茜と藍の境目の色。一日を終えるこの夕暮れの時間が、私はけっこう好きなのです。
最後の何人かの行列を順にさばいていた私は、ふと、そのいちばん後ろに目をやって——動きを止めました。
店じまい間際の行列の、いちばん後ろ。夕闇に紛れるみたいに、見慣れた黒衣が、ひっそりと並んでいた。
——領主さま。並ばなくて、いいのに。
彼の前には、腰の曲がったおばあさんと、赤子を負ぶった若い母親。当主さまは手袋をした両手を前で組んで、じっと、自分の順番を待っています。
私は何度も、そう言いかけました。当主さまなら店じまいのあとに、ゆっくり本殿へ通していただけます。わざわざ参拝客に混じって、こんな山道の途中で待つ道理は、どこにもありません。それなのにその背中は、まるで「ここに並ぶのが当たり前だ」とでもいうように、微動だにしないのです。前のおばあさんが柄杓を落とせば、黙って拾って渡してやり、赤子がむずかれば、そっと半歩、間を空ける。——なんだか、声をかけるのがはばかられました。
やがて、前のふたりが祈りを終えて、山を下りていきました。
いよいよ黒衣の番です。
「……次の方、どうぞ」
私が言うと、その人は、一歩前へ出ました。夕日を背にした顔は、いつもの氷のように静かな辺境伯の顔。けれどその手が、ほんの少しだけ所在なさげに動いたのを、私は見逃しませんでした。
「領主です」
と、その人は言いました。まるで、名乗らなければ、ここへ入れてもらえないとでもいうように。
私は思わず、ぷっと吹き出しそうになるのをこらえました。存じております。この領で、あなたを知らない者などおりません。それでもその律儀さが、なんだか可笑しくて、そして少しだけあたたかくて。
「存じてます。お代は銅貨5枚です」
「知っている」
短くそう返して、当主さまは懐から、きっちり銅貨を五枚、取り出しました。多くもなく、少なくもなく、ちょうど五枚。……このお方、金貨の桁には目を回すくせに、こういうところだけは、妙に几帳面なのです。
それから、手水場へ進んで、柄杓を取りました。
その手つきを見て、私はおや、と思いました。ぎこちないのに、順番が間違っていない。右手を清め、左手を清め、口をすすぐ真似をして、最後に柄杓を立てて柄を洗う。——この作法は、私が参拝客に、口を酸っぱくして教えているものです。けれど当主さまに、手取り足取り教えた覚えはありません。
どこかで、誰かに聞いてきたのでしょう。町の領民にでもこっそり尋ねて、予習をしてきた。……そう思うとまた、胸のあたりがくすぐったくなりました。氷の辺境伯と、みんなが怖がるこの人が。参拝の作法を、こっそり練習してくる。いったい、誰に見せるための予習なのやら。
本殿の前に立って、当主さまは鈴の緒を、そっと鳴らしました。
ちりん、と、ひとつ。
それから、手を合わせて、目を閉じます。何を祈っているのかは聞きませんでした。願い事は、その人と神さまの、ふたりだけのもの。横から覗くような無粋なことは、いたしません。ただ、その長いまつげが伏せられた横顔が、夕暮れの光の中で、いつもよりずっとやわらかく見えたことだけは。……たぶん、私の胸の勝手な思い違いなのでしょう。
祈りを終えた当主さまは、こちらを振り向いて、ふと口を開きかけました。けれど結局、何も言わず。ただ小さくうなずいて身をひるがえし、山を下りていきます。
その黒い背中が、暮れゆく参道の先へ消えていく。
私はほうきを握ったまま、しばらく、その後ろ姿を見送っていました。
なんでしょう、この感じは。参拝客をひとり見送ったはずなのに、なんだかいつもと勝手が違う。胸の奥に、あたたかいお湯をそっと一杯注がれたような。……はて。
「……おなかがすいて、夕飯でも、恋しくなったのでしょうか」
私は首をかしげながら、店じまいの続きに戻ったのでした。




