銅貨5枚の波紋(一) 遅いのに、二度とぶり返さない——噂の社に、行列ができた日
あの母子の一件は、思いのほか早く、町の人たちの口にのぼりはじめました。
三日かけて、熱が下がった。急に治ったのではなく、ゆっくり、確かに引いていった。それが、どうやら、町の人たちには、かえって珍しく映ったようです。教会の光は、その場でぱっと治して、次の日にはぶり返す。けれど、あの鈴の社のお守りは——遅いけれど、二度とぶり返さない。
「なんでも、あの呪いの山に建った社が、えらく変わってるらしいぞ」
「聖女さまが、光でぱっと治すんじゃねえんだと。じわじわ、確かに効くんだと」
噂は、噂を呼びました。
ある行商人は、こんな話を広めてくれました。山賊が出るという街道を、鈴の社のお守りを懐に通ったら、なぜか自分の荷だけ、無事に抜けられた、と。またある年寄りは、階段を上るたびに痛んだ古傷の膝が、いつのまにか、すいすい上れるようになっていた、と近所じゅうに触れ回りました。畑仕事で腰を痛めていたおかみさんが、気づけば一日じゅう鍬を振るえるようになっていた、という話も、聞こえてきます。
おもしろいのは、誰ひとり、「たちどころに治った」とは言わないことです。みんな、口を揃えて、「気づいたら、楽になっていた」「いつのまにか、効いていた」と言う。まばゆい光も、劇的な奇跡もない。ただ、遅くて、確かなもの。それが、少しずつ、この土地の人たちの言葉に、なじんでいくのがわかりました。
教会で、ずっと「遅い」と叱られ続けた、私の、ろうそく一本ぶんの祈り。それが、ここでは、ちゃんと値打ちを持ちはじめている。追い出された先で、追い出された理由に、救われていく。なんとも、可笑しな話です。けれど、それが、くすぐったくて、うれしくて、しかたのないのでした。
* * *
そして、ある朝のことです。
いつものように参道を掃きに出た私は、鳥居の下を見て、ほうきを取り落としそうになりました。
行列が、できていたのです。
鳥居の外まで、参拝の人が、ずらりと並んでいる。昨日までは、ぽつり、ぽつりと来るくらいだったのに。ひと晩で、いったい何が。……いえ、考えるまでもありません。あの噂が、とうとう、この山を動かしたのです。
うれしい。うれしいのですが——。
(人手が……いえ、人件費が……)
思わず、頭の中で、そろばんが弾けました。参拝の作法を教えて、祈りを補助して、お守りを書いて、お代をいただいて。それを、ぜんぶ、私ひとりで回すのです。うれしい悲鳴、とは、まさにこのこと。けれど、人を雇えば、その分、お代が出ていく。ここは、気合と、持ち前の手際で、乗り切るしかありません。
「お、お待たせしました! ええと、そちらのお方から、順番にどうぞ!」
そうして、私の、長い長い一日が、幕を開けたのでした。
まずは、手水の案内です。作法を知らない人ばかりですから、一人ひとり、柄杓の持ち方から教えていきます。ところが、いちばん前に並んでいたおじいちゃんが、張り切りすぎて、手だけでなく、頭までじゃぶじゃぶ洗いはじめました。
「おじいちゃん、そこまで清めなくても、大丈夫ですから!」
「なあに、この歳になると、頭ん中も、雑念だらけでな! ついでに、洗っとくにこしたことはねえ!」
……なるほど。一理、あります。けれど、この寒さで風邪をひかれても困りますので、私は、そっと手ぬぐいをお貸ししました。手水で頭を洗った参拝客は、たぶん、後にも先にも、あのおじいちゃんだけでしょう。
次から次へと、参拝客が、本殿の前へ進んでいきます。私は、その一人ひとりの祈りに、そっと聖力を重ねていきました。膝の痛い人。眠れない人。旅の無事を願う人。——祈りだけは、どんなに行列が伸びても、雑にはできません。急がず、焦らず、その人の願いに、きちんと寄り添う。だから、そのぶん、ほかの手を、猛烈に速める。会計をしながら、お守りを書きながら、次の人の手水を目で案内しながら。我ながら、たいした早業でした。教会で鍛えられた、あの流れ作業の日々も、こんなところで役に立つとは。
と、そこへ。農家のおじさんが、大きな籠を、よいしょ、と抱えてやってきました。
「聖女さま! お代だ、お代! あいにく銅貨の持ち合わせがなくてよ、こいつで勘弁してくれや!」
どさ、と賽銭箱の上に置かれたのは——採れたての、大根と、人参と、青々とした葉物の、山でした。
「あの……お気持ちは、とてもうれしいのですが。換金が」
「なあに、うまいぞ! 今朝、畑から抜いてきたばっかりだ! そこらの銅貨より、よっぽど値打ちもんだぞ!」
おじさんは、豪快に笑って、行ってしまいました。あとに残されたのは、賽銭箱の上に、でんと居座る、立派な大根。……お守りのお代が、大根。ずしりと重いそれを抱えて、私は、しばし、天を仰ぎました。まあ、換金はできずとも、今夜のおかずには、なりそうです。まかないのおばさんが、腕をふるってくれるでしょう。神さまへのお供えが、めぐりめぐって、私のお腹に収まる。これはこれで、ありがたい循環かもしれません。
昼を過ぎるころには、とうとう、お守りの木札が、底をつきました。
「ガンツさーん! 木札を、大至急、もっと! できれば、山ほど、お願いします!」
ちょうど石段の手直しに来ていたガンツさんに、私は、なりふりかまわず泣きつきました。ガンツさんは、鳥居の外まで続く行列を見て、太い眉を、ぐっと持ち上げて。それから、にやりと笑いました。
「見ろよ、お社さま。壁のねえ門にも、ちゃんと、人が来るじゃねえか」
「ええ! おっしゃるとおりです! ですから、木札を!」
「へいへい。まったく、人使いの荒いお社さまだ」
憎まれ口をたたきながらも、ガンツさんは、いそいそと木を削りに戻っていってくれました。……この人も、なんだかんだと言って、この社のことが、すっかり気に入っているのです。あの、いちばん最初に「壁のねえ門なんざ」と文句を言っていた人が、いまや、いちばんの、うしろだて。人の縁とは、わからないものです。
行列の途中で、一人、若いお嫁さんが、うつむいたまま、なかなか本殿の前へ進めずにいました。順番が来ても、もじもじと、鳥居のほうへ引き返そうとする。私は、その袖を、そっと引き止めました。
「どうか、なさいましたか」
「あの……うちの人が、寝込んでて。お守りを、いただきたいんです。でも——」
お嫁さんは、握りしめた手を、そっと開きました。手のひらには、銅貨が、三枚。五枚には、二枚、足りません。
「これしか、なくて。出直して、きます。ごめんなさい」
消え入るような声で、そう言って、帰ろうとする。私は、慌てて、引き止めました。
「待ってください。……お代は、また今度で、いいんです」
「え?」
「お守りは、先にお渡しします。お代は、払えるときに、払ってくだされば。ご主人が元気になって、お仕事に戻られてから。それでも、遅くありませんから」
私は、帳場から、もう一冊、別の帳面を取り出しました。表紙に、「つけ帳」と、書いてあります。そこへ、お嫁さんの名前を、そっと、書き加えました。
「これで、大丈夫。ちゃんと、ご主人の祈り、込めておきますね」
お嫁さんは、しばらく、ぽかんとしていました。それから、ぽろぽろと、涙をこぼして。何度も、何度も、頭を下げながら、握った銅貨三枚を、どうしても、と、賽銭箱に入れて、帰っていきました。
……ふふ。つけ帳に、また一人、名前が増えました。困っている人を、お金がないというだけで、鳥居の前から追い返す。そんな社に、私は、絶対に、したくないのです。祈りは、一食分。けれど、その一食分すら、今日は工面できない、という人だって、いる。そういう人のためにこそ、この、つけ帳は、あるのですから。




