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【幕間】白と緋

この三月ほど、俺は三日にあげず、あの山に登っている。


 名目は視察だ。道路整備の進み具合を、領主として自分の目で確かめる。そうホルガーには言ってある。ホルガーは何も言わずに、ただ、胃の薬の減りを早めている。


 白々しいのは承知の上だ。整えているのは彼女ひとりしか通らない山道で、その先に建つのは、聞いたこともない「神社」なる代物。領地経営とは、とても呼べない。それでも俺は登る。三日おきに、判で押したように。


 登れば、彼女がいる。


 いつも何かの真ん中にいた。大工衆に指図し、板を運び、妙な作法を教えては、山じゅうに笑い声を響かせている。手水の水を飲むな、賽銭は盗まれない、と真顔でわけのわからないことを言っては、男たちを煙に巻いている。誰も寄りつかなかった、死んだ山だ。それが、彼女の来た日から、日ごとに生き返っていく。——俺の中の、何かも。それは、まだ名前を持たない。


 その日も、俺はいつものように山を登った。石段はもう半ば以上できあがり、社も、朱塗りの鳥居も、あらかた仕上がっていた。彼女の描いた、あの壁のない門が、青い空にくっきりと立っている。いい眺めだ、と思った。それだけのはずだった。


 参道の途中で、本殿のほうから、人影が出てきた。


 俺は足を止めた。


 白い上着に、緋色の袴。彼女が、見たことのない装束をまとっていた。


 いや——装束の問題ではない。うまく言えない。ただ、そこにいたのは、俺の知っているあの聖女ではなかった。金貨の桁に目を回し、パン一切れの話をし、銅貨を数えてにんまりする、あの変わった女ではなかった。


 白と緋。その色に包まれて、彼女は、まるでずっと昔からそこにいたもののように、静かに、澄んで立っていた。この世のものではない、遠い場所から来た使いのように。夕日を透かした緋色が、風にわずかに揺れる。俺は、その一点から目を離せなかった。息をするのを忘れていた。


 妙な話だ。俺は王都の夜会で、着飾った令嬢を数えきれぬほど見てきた。宝石も、絹も、見飽きるほど見た。美しい女など、珍しくもない。だが、これは違った。美しい、という言葉では足りない。足りないのに、では何だと問われても、俺は答える言葉を持たない。


 ただ、ひとつ、思い知らされた。


 俺は彼女を、教会に捨てられた燭台級だと、どこかで侮っていた。哀れな、行き場のない聖女だと。——違う。彼女は、これだったのだ。誰にも見出されないまま、こんなにも清らかなものを、その内にずっと抱えていた。それを俺は、今日まで見ていなかった。


 同時に、奇妙な怒りが、こみあげてきた。教会は、この娘を燭台級と嘲り、ただ働きでこき使い、あげく厄介払いのように、この辺境へ捨てた。こんなにも得がたいものを手のうちに握っていながら、あの連中は、その値打ちを、まるで分かっていなかったのだ。度しがたい、愚かさだ。


 ——もっとも。連中に見る目があったなら、彼女は今ごろ、この山にはいない。俺の前にも、いない。そう思うと、あの度しがたい愚かさに、いっそ礼を言いたいような、ねじれた心地にもなった。捨ててくれて、ありがとう、と。我ながら、性根の曲がった感謝もあったものだ。


「……当主さま?」


 彼女がこちらを見て、首をかしげた。何か、言わなければ。分かっている。分かっているのに、体が動かない。視線が勝手に、右へ、左へと逃げていく。最後には、天を仰いだ。空に答えなど、あるはずもないのに。耳が熱い。焼けるように熱い。


 背後で、ホルガーの声がした。「……旦那さま。呼吸を」。言われて初めて、俺は自分が息を止めていたことに気づいた。情けない。二十歳にもなるいい大人が。辺境を預かる領主が。娘ひとりの装束に、呼吸すら忘れている。


 何か言え。ひとことでいい。彼女は不安げに、俺の言葉を待っている。喉の奥から、やっとのことで絞り出した。


「…………似合う」


 三文字。たった三文字だ。それを言うのに、俺は、あの雪の山を登るときよりも、ずっと力を使った気がした。言い終えたとたん、いたたまれなくなって、俺は逃げるように本殿へ足を向けた。彼女の顔を、まともに見られなかった。


 ふと、視界の隅で、後片づけをしていた大工衆までが、手を止めて彼女に見入っているのに気づいた。無理もない。あれを見て、心を動かされない男はいない。——そう思ったとたん、俺は、自分でも意外なほど、面白くない気持ちになった。なぜだ。彼らが彼女を見ることの、いったい何が。……この胸の奥の、ざらついた感じにも、俺は名前をつけられない。


 似合う、か。


 歩きながら、俺は胸のうちで自分をあざ笑った。もっと気の利いた言葉が、いくらでもあっただろうに。よりにもよって、似合う、とは。まるで、初めて女と口をきく、田舎の少年だ。


 だが。もし、もう一度あの瞬間に戻っても、俺はきっと、同じ三文字しか言えない。それ以上の言葉は、俺の中にない。名前のない何かは、いつも、言葉になる手前でつかえてしまう。


 明日も、俺はこの山に登るのだろう。視察だ、と言って。


 白と緋。夕日に透けたあの色を、俺はたぶん、生涯忘れない。……おかしな聖女だ。何もない山に澄んだものを連れてきて、俺の言葉まで、根こそぎ奪っていく。

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