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鳥居と巫女服(三) 開業初日は客ゼロ。夕暮れ、熱の子を抱いた母が駆け上がってきた

そして、いよいよ、鈴の社の開業の日を迎えました。


 朝から私は、そわそわと参拝客を待ちました。真新しい巫女装束に身を包み、掃き清めた参道の前で、いつ、誰が鳥居をくぐってきてもいいように。


 ——結果から申し上げますと。その日の参拝客は、見事に、ゼロでした。


 一人も、来ませんでした。朝から、夕暮れまで。鳥居をくぐる人影は、ついに、ひとつもありませんでした。


 まあ、そうでしょうね、とは思っていました。呪いの山、祟りの山、と長らく恐れられてきた場所です。そこにいきなり、聞いたこともない「神社」なるものが建ったからといって、すぐに人が押し寄せてくるほうが、どうかしています。


 それでも、私は、ちっともへこみませんでした。のんびりと参道を掃き、軒の鈴の音を聞き、まかないのおばさんが持たせてくれたお弁当を、鳥居の下で、ひとりでおいしくいただきました。山の一日は、静かで、あたたかくて、いいものです。閑古鳥が鳴くなら、その鳴き声に耳を澄ませていればいい。急いで客を呼び込もうなんて、これっぽっちも思いませんでした。


 とはいえ、まったく人けがなかったわけでは、ありません。


 昼過ぎ、山道のずっと下のほうに、麓の人たちの姿が、ちらほらと見えました。新しく整えられた石段の途中まで登ってきては、鳥居のほうを遠巻きにうかがって、何やらひそひそと話している。けれど、鳥居をくぐるところまでは、どうしても、来ないのです。呪いの山に建った、得体の知れないもの。近づいてはいけない。長いあいだ、そう言い聞かされて育った人たちにとって、その一歩は、きっと、思うより重いのでしょう。


 一度だけ、小さな女の子が、母親の手を振りほどいて、とことこと鳥居のほうへ駆けてきたことがありました。私が笑いかけると、その子も、につ、と笑い返してくれて。けれど、次の瞬間、母親が血相を変えて駆けてきて、その子を、ぱっと抱き上げ、逃げるように山を下りていってしまいました。


 ……焦らない、焦らない。


 私は、遠ざかる親子の背中に、心の中で、そっと手を振りました。いいのです。無理に、くぐらせるものではありません。あの女の子の笑顔を、私は、ちゃんと覚えておきます。いつか、あの子が、自分の足でこの鳥居をくぐってくれる日を、気長に待つことにしましょう。門というのは、そういうものなのですから。


「……客は、来ないな」


 夕方、様子を見に来た当主さまが、閑散とした境内を眺めて、ぽつりと言いました。せっかく社を建てたのに、と、心配してくださっているのでしょう。


 私は、笑って答えました。


「大丈夫です。開店初日から行列ができるお店は、だいたい、三日で飽きられるんですよ」


 これは、前世の商売の知恵です。ゆっくり、じわじわと。地道に信用を積み上げたお店だけが、長く続く。急いては事を仕損じる。私の祈りと、同じです。遅くて確かなものが、いちばん強い。


 当主さまは、それを聞いて、ふ、と口もとをゆるめました。そして、「……そうか」とだけ言って、また、ゆっくりと山を下りていきました。その背中が、なんだか、来たときより少しだけ軽く見えたのは、気のせいでしょうか。


 その、夕暮れどきのことでした。


 西の空が茜色に染まりはじめたころ。参道の下から、必死の形相で、一人の女の人が駆け上がってくるのが見えました。腕には、ぐったりとした小さな子どもを抱えています。


「お、お願いします! この子を——この子を、診てやってくださいまし!」


 息を切らせて、女の人は、鳥居の下で崩れるように膝をつきました。腕の中の男の子は、顔を真っ赤にして、苦しそうに、はあ、はあ、と浅い息をしています。ひどい熱でした。額に手をあてると、火のように熱い。


「もう何日も、熱が下がらないんです。教会の巡回の聖女さまにも診てもらったんですけど……その場は下がるんです。でも次の日には、またぶり返して。もうずっと、その繰り返しで」


 教会の、まばゆい光。その場では、たしかに熱を引かせる。けれど、それは一時しのぎ。根っこの、熱の"もと"までは焼き切れていないから、ぶり返す。——ああ、これは、私の祈りの出番かもしれません。


「お母さん、落ち着いて。まず、こちらへ」


 私は、母親を手水舎へそっと導きました。


「手と口を清めてください。……そう。ゆっくりでいいんです」


 震える手で、母親が柄杓の水を使います。そのひとつひとつの所作が、不思議と、母親の乱れた息を少しずつ整えていくのがわかりました。手水には、そういう力もあるのです。心を鎮める力が。清めを終えた母親の目は、さっきより、いくらか落ち着きを取り戻していました。


 それから私は、母親を本殿の前へ案内しました。そして、少し、驚くべきことを頼んだのです。


「お母さん。あなたが、この子のために祈ってあげてください」


「え……わ、私が、ですか? 聖女さまが祈ってくださるんじゃ」


「私は、あとからそっと手を添えるだけです。いちばん最初に祈るのは、お母さん、あなたです」


 母親は戸惑いながらも、我が子を抱いたまま、両手を合わせました。そして、祈りはじめました。どうか、この子の熱が下がりますように。どうか、ぐっすり眠れますように。明日の朝には、笑ってごはんを食べられますように——。


 その祈りは、たどたどしくて、言葉もぎこちなくて。けれど、この世のどんな聖女の祈りよりも、まっすぐで、必死で、あたたかいものでした。母の祈りとは、こんなにも強いものなのかと、聞いている私のほうが、胸を打たれるほどに。


 私は、そっと、その母親の背中に手を添えました。


 目を閉じて、時間をかけて。母親の祈りに、私の聖力を静かに重ねていきます。急がず、焦らず。母の願いを、私の力でそっと後押しするように。まばゆい光はありません。ろうそく一本ぶんの、淡いあたたかな灯り。それが母の祈りに寄り添って、子どもの小さな体の芯へと、ゆっくり、ゆっくり、しみこんでいきました。


 しばらくして。


 男の子の、苦しそうだった息が、すう、と深く静かになりました。真っ赤だった顔から、すこしずつ熱が引いていきます。やがてその子は、こてん、と母親の胸で寝息を立てはじめました。ずっと眠れずにいたのでしょう。安らかな、深い眠りでした。


「……眠った。この子が、こんなに穏やかな顔で眠るの、何日ぶりでしょう」


 母親は、我が子の寝顔を見つめたまま、声を震わせました。自分が祈った、その祈りで、我が子が眠りについた。その事実が、じわじわと、この人の胸にしみこんでいくのが、わかりました。教会の光では、決して味わえなかった手ごたえ。治してもらったのではなく、自分の手で、我が子を楽にしてやれた。母親にとって、これほど心強いことは、ないはずです。


 私は、あらかじめ用意しておいたお守りを、そっと子どもの胸元に置きました。手のひらほどの、小さな木の札。そこには、鈴の形が、焼き印でひとつ押してあります。


「この子の熱は、これから三日かけて、ゆっくり下がります。急に下げてはいけません。三日かけて。そのあいだ、このお守りを枕元に。……そして、お母さんが毎晩、今日みたいに祈ってあげてください」


「三日……。すぐには、下がらないのですか」


「はい。すぐに下がった熱は、すぐにぶり返します。ゆっくり下がった熱は、二度と戻ってきません。——急がば、回れ、です」


 母親は、何度も何度も頭を下げました。そして、震える手で、懐からお金を取り出しました。銀貨が、二枚。おそらくこの母親の、なけなしの全財産でした。


「これで、足りますでしょうか。足りなければ、あとから必ずお持ちします。ですから、どうか」


 私は、その銀貨を、そっと母親の手のひらに押し返しました。そして、指を五本立てて言いました。


「お代は、銅貨五枚です」


「……え?」


「銅貨、五枚。それだけで結構です」


 母親は、ぽかんと私を見ました。銀貨二枚を握りしめて、いったい何を言われたのかわからない、という顔で。


「そ、そんな。こんな立派なことをしていただいて、銅貨五枚だなんて。とても、そんな」


「銅貨五枚は、この土地の一食分です。一食分。それが、祈りの正しい値段です。それ以上は、いただきません」


 これが、私の譲れない値付けでした。高すぎれば、本当に困っている人が来られなくなる。祈りが、お金持ちだけのものになってしまう。かといって、ただ働きもしない。銅貨五枚。一食分。祈った人が無理なく払えて、それでいて、祈りを粗末にもしない。ちょうど、いい値段。


 母親は、しばらくうつむいていました。それから、涙をぽろぽろとこぼしながら、大事そうに銅貨を五枚数えて、私の手のひらに、そっとのせてくれました。ずしりと重い、銅貨五枚。私の家計帳の、鈴の社としての、記念すべき初めての売り上げです。


 ……にんまりしそうになるのを、私は、ぐっとこらえました。今は、そういう場面ではないのですから。


 眠った我が子を抱いて、母親が、何度も振り返りながら山を下りていったあと。私は、ひとり、暗くなりはじめた社に残って、家計帳を、そっと開きました。軒の鈴が、夕闇の中で、ちりん、と、ひとつ鳴りました。


 まっさらな、鈴の社の頁。その、いちばん最初の行に、私は、ろうそくの灯りをたよりに、ていねいに、書き込みました。


『祈祷料——銅貨五枚』


 たった、銅貨五枚。開業初日の売り上げとしては、笑ってしまうほど、ささやかなものです。けれど、この五枚には、教会でいただいた、どんなお金とも違う、あたたかさが、こもっている気がしました。誰かの願いに、私の祈りが、ちゃんと役に立った。その、確かな手ごたえ。


 ——うん。今度こそ、私は、私の思う祈りを、できている。


 誰も見ていないのをいいことに、私は、ようやく、心ゆくまで、にんまりしました。ろうそくの灯りに照らされた、けちくさい笑顔。それでも、この十年で、いちばん、幸せな笑顔だったと思います。


 軒の鈴が、もう一度、ちりん、と鳴って、私の初日を、そっと、ねぎらってくれました。


   *  *  *


 三日後の朝。山道を駆け上がってきた母は、私の顔を見るなり泣き崩れた。熱は——下がっていた。

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