【幕間】使い道
「では、この山を、ください」
彼女がそう言ったとき、俺は、危うく吹き出すところだった。
金貨の箱を前にして、蓋を開けて、そっと閉じた女だ。街の屋敷にも、宝石にも、目もくれなかった。そのくせ、領地図のいちばん端にある、使い道のない山を、迷いなく指さした。何もない山を。畑にもならず、鉱脈も出ず、地図に載せる意味すらない、あの山を。
ホルガーが、地図を三度確かめていた。無理もない。だが、俺には、なぜだか、その選択が、ひどく彼女らしく思えた。そして——彼女がそれを選んだことが、なぜか、悪くない気分だった。理由は、うまく言えない。
だから、下見についていった。領主の視察だ、と言って。
自分でも、白々しいとは思う。地図に載せる意味もないと切り捨てた山を、領主が自ら見に行く。ホルガーが妙な顔をしていた。それでも、行った。彼女が、あの何もない山で、何を見つけるのか。それを、この目で確かめたかった。
山で、彼女は、いつもと違う顔をした。
涸れかけた、みすぼらしい泉。誰が見ても、ただの水たまりだ。だが彼女は、その前にしゃがみ込むと、何かに聞き入るような顔で、じっと水面を見つめていた。商人の顔でも、聖女の顔でもない。もっと、静かな顔。祈る前の、あの顔に、少し似ていた。
俺は、その横顔から、目を離せなかった。
彼女が足を滑らせたのは、その帰りだ。
考えるより先に、俺の手が動いていた。倒れかける彼女を、とっさに支えようとして——寸前で、止めた。止めるしかなかった。この手で触れれば、彼女は凍る。十年、そうやって生きてきた。誰にも触れず、誰にも触れさせず。呪いは、彼女の祈りで、指先から手首まで、ほどけてきている。だが、まだだ。まだ、人に触れられる手では、ない。
宙で行き場を失った手を、俺は、静かに引っ込めた。そして、足元、とだけ言った。
彼女は、気づかなかった。おやさしい方だ、とでも思ったのだろう。それでいい。俺が、支えたくて支えられなかったことなど、知らなくていい。……ただ、あの一瞬、自分の手が、これほど疎ましいと思ったことは、久しくなかった。
皮肉なものだ。この手を、少しずつほどいてくれているのは、ほかでもない彼女の祈りだというのに。その祈りが、まだ、彼女ひとりを支えることも許してくれない。——早く解けてしまえ、と、柄にもなく思った。遅くて、確かな祈り。その遅さに、俺は、初めて、もどかしさを覚えていた。
泉のほとりで、彼女は、いきなり宣言した。ここに神社を建てる、と。
猟師が、邪神と聞き間違えて、腰を抜かした。あのときも、俺は、笑いをこらえるのに苦労した。彼女といると、どうも、長く保ってきた表情の作り方を、忘れそうになる。
そして、彼女は、その神社とやらのことを、語った。
祈りを、上から授ける教会とは、逆なのだと。参拝の者が、自分で祈る。その祈りに聖力を重ねて、本人に返す。祈った気持ちは、その人の中に残る。だから——聖女がいなくなっても、大丈夫な場所を、作りたいのだと。
聖女が、いなくなっても。
その一言が、妙に、耳に残った。
そうだ。彼女は、いなくなる。一年経てば、呪いは解ける。契約は終わる。彼女は、この屋敷を、この土地を、出ていく。当然だ。それを、彼女自身が、いちばんよく分かっている。だから、自分が去ったあとも回る仕組みを、作ろうとしている。
俺は、それが、気に入らなかった。
理由は、例によって、言葉にできない。ただ、彼女が去ったあとの屋敷を——また元の、あの静かな墓のような屋敷に戻ることを、想像したくなかった。それだけだ。
気づけば、口が動いていた。
「———好きにしろ」
言ってから、俺は、続けた。山道を直せ。石段を組め。手すりも、灯りもいる。費用は、俺が持つ。
ホルガーが、目を丸くした。彼女も、慌てて止めようとした。褒美の範囲を超えている、と。
超えている。分かっている。
「領内の、道路整備だ」
そう言い切った。もちろん、口実だ。あんな山道、整備したところで、通るのは彼女ひとり。だが、道を作り、石段を組み、灯りをともせば——そこは、ただの山ではなくなる。人が通う場所になる。彼女が、根を張る場所になる。
根を張れば。……人は、簡単には、去れなくなる。
そこまで考えて、俺は、自分の考えに、少しだけ、たじろいだ。俺は、彼女を、この土地に縛りつけようとしているのか。呪いを解いてくれる、恩人を。一年で去るのが筋の、聖女を。
——縛りつける、という言葉は、正しくない気がした。だが、では何なのかと問われても、答える言葉を、俺は持たない。名前のつけ方を、知らない。
だから、これは、道路整備だ。領地経営だ。そういうことにしておく。そのほうが、都合がいい。
使い道のない山、と、ホルガーは言った。
だが、俺は、その使い道を、ひとつだけ、見つけてしまったらしい。——彼女が、ここに、居続けるための。
窓の外に、雪が舞いはじめていた。おかしな聖女だ。何もない山を選び、涸れた泉に見入り、いなくなる前提で、居場所を作ろうとする。
その、いなくなる前提のほうを、どうにか、覆したいと。そう思っている自分に、俺は、まだ、名前をつけられずにいる。




